12 転換Ⅱ①
そんな感じ?で比較的和やかに、時間は過ぎる。
木霊たちが近くにいる暮らしは、円にとって予想以上に楽しかった。
遥の奏でる笛の音は常に心地よく、ナンフウとの何気ない雑談は、大楠とのやり取りとは別の良さがある。
どうやら……円自身。
社会的なしがらみのない相手との何気ない付き合いというものに、無自覚で飢えていた節がある。
高校時代の友人のような気の置けないやり取りを、思えば十年近く、ろくにしていなかったかもしれない。
色々とギリギリだった大学時代は、精神的な余裕もあまりなかった。
そんな中でも取りあえずカノジョが出来、おまけに二年ばかりお付き合いしていたなんて、奇跡だったなと今にして思う。
(……なるほどね。そりゃ必要以上に思い詰めもするし、変に疲れもするか)
ふとそう思い、彼は密かに苦笑した。
実は、彼らがそばにいるだけで護衛対象の心を穏かにする癒しの効果があるのだと、これは仕事のない火曜日に、散歩がてら小波神社へ行き、大楠に会った時に聞いた。
「……ですので、我々が護衛することの別名を『緑蔭の癒し』ともいいます。まあ、結木草仁がそう名付けたのですが。護衛対象の心が穏やかになれば、不浄が寄り付きにくくもなりますしね」
自らの本体である神木の楠の下にどっしりと座り、彼はそう言う。
「オナミヒメ……さくやさんは幼い頃。質の悪い不浄にちょいちょい、絡まれる時期がありましてね。その頃のさくやさんは可哀相に、ノイローゼ気味でした。起きている時だけでなく眠っている時も怯えていました。ここは月の氏族の姫である特徴の、悪い面でもあったのでしょうね、眠りの中であっても身近にいる不浄の気配を察してしまうのです。見かねた結木草仁が、娘がせめて悪夢に悩まされず眠れるよう、可能なら昼夜とも心穏やかに過ごせるよう、三人で守ってやってほしいと頭を下げたのです。尤も、今の九条さんに対して行っているような最大級レベルでの護衛は、せいぜい彼女が小学校の低学年くらいまでの時期でした。その後、徐々に護衛のレベルをゆるめ、最近は『離れた位置から見守る』程度まで緩めていました」
「え? ……ということは。緩めていたとはいえさくやさんは最近まで、皆さんに護衛されていたんですか?……ああ、そうだ」
円は思い出す。
「遥くんが初対面の時、僕はさくやさんの護衛をやってる『にいや』だとか何とか、言ってましたね。水神の姫に対する形式上のことかと思っていましたけど、本当にそうだったんだ。えええ? じゃ、じゃあ今、彼女の護衛は……」
驚き、やや焦る円へ、
「ご心配には及びません」
と、大楠はゆったりとほほ笑む。
「オナミヒメに、もはや我らの護衛は必要ありません。かの方は本来、強いのです。本来の力を発揮し始めたヒメは、そんじょそこらの不浄如きにどうこうされるような、やわな存在ではありませんから」
ザザザ、と、風もないのに葉擦れの音が響いた。
大楠の笑みと連動しているのだと、円は気付く。
「かの方はご自分から、九条さんに『緑蔭の癒し』を付けてほしいと願われたのです。守ってもらうだけの子供時代を終え、他の人を守りたいと思う大人に近付いたと言えましょう」
彼はふと、真顔になった。
「九条さんとしては不条理で嫌なことばかりでしょうが。この件はきっと、九条さんご自身にとっても我らのヒメにとっても、成長のためといいますか次へ進むのに必要なきっかけだったと、私は思うようになりました。……そうですね、今は怨霊になっているお嬢さんにとっても、あるいは蒼司さんにとっても。必然、だったと思います」
「……そう、でしょうか?」
あやふやに首を傾げる円へ、齢800年を超える大樹の精は深くゆっくりとうなずいた。
「そうですとも」
その頃。
結木さくやは戸惑いつつも、新しい『自分の環境』に馴染みつつあった。
最初の朝、彼女は、HRにクラスメイトが増えるにつれ、やたら『うるさい』ことに気付く。
始業前なのだから、クラス内がざわざわしているのはいつものことだ。
だが……そういう物理的に『うるさい』だけじゃない、ことを一瞬後、彼女は理解した。
(これって……)
クラスメートの心の声が、つぶやきレベルがほとんどながら、さくやの『耳』へいっせいに押し寄せているせいで『うるさい』のだ。
(そうや。たしか、幼稚園に入った当時もこんな感じやった……)
不浄に身体を乗っ取られ、発作的に車の前に飛び出す事件が起こる前の、入園したばかりの頃の記憶がよみがえる。
彼女は最初、幼稚園ってうるさいところだなあと、あきれるのも通り越して感心したものだ。
物理的な声もうるさかったが、園児たちの心の声はもっとうるさい。
なんといっても幼児だ、自制が利かないし不安にもなりやすい。物理の声も心の声も、キンキンしているのはある意味当然。
しかし当時はさくやも幼児。
圧倒されて感心した後、ぼうっと、走り回っている『おともだち』の群を眺めているとぐったり疲れてくるし、なんだか悲しくもなってくる。
保育室の隅でしくしく泣いていたさくやを、担任の先生は『ママと離れて寂しがっている子』だと思い、優しく気遣ってくれたものだ。
先生の気遣いは嬉しかったが、まるで的外れの気遣いに余計悲しくなった……。
『結木ヒメちゃん、またぼうっとしてるよ』
どこからともなく、そんな声が聞こえてきた。
物理の声ではない。
クラスメートの誰かの、心の声だ。
『大体、あの子がヒメとか名前負けやん。大学の先生の娘らしいけど、どっちかゆーたらブスやし。あ、平安美人とか天平美人とかやったらイケるかも~』
嘲りを含んだ声。
さくやの知らないところで何故か持たれているらしい、嫉妬のような感情の揺らぎも感じる。
彼女はひとつ、小さく息を吐いた。
ここまであからさまな敵意に、入学以来ずっと気付かずにいたのは。
遥の『緑蔭』に守られていたお蔭だろう。
背筋を伸ばして軽く目を閉じ、念じる。
(『我は鏡なり』)
その瞬間。
さくやでさえ予想外のことが起こった。
彼女は、自らの能力を凝らせた『月の鏡』……銅鏡に似た、人の心を曇りなく映し出す鏡を心に浮かべたのだが。
何故か『おもとの泉』の姿が浮かんだ。
こんこんと湧きだす清水がHRいっぱいに広がるイメージが浮かび……一瞬、しん、と、室内から音が消えた。
「おおう、天使様が通った!」
誰かの声がおどけた調子で響き、そこかしこで笑声が起こる。
「おっはよー。なになに、なんか面白いことでもあったん?」
ちょうどその時、上谷花が登校してきてさくやの方を見ながら問うた。
「天使様が通った、だけや」
ほんのりと笑んで、さくやは花へ、そう言った。




