11 朝Ⅱ③
午前中にゆっくり宿舎の掃除や洗濯などを済ませ、昼前に円は仕事へ出かける。
服装はこの前の神事で身に着けていた、水色のボタンダウンのシャツにネクタイ、紺のビジネススラックス。
帰りは夕方になるだろうから、念のために春秋物の薄手の綿のコートを羽織る。
必要かどうか微妙だが、自前の白衣と聴診器は、ファスナー付きのトートバッグへ入れて持ってゆくことにした。
念のため、【dark】カットの眼鏡はボールペンと一緒にシャツの胸ポケットへ入れておく。
徒歩でゆっくり進み、途中でファミレスへ寄ってランチを食べることにする。
今までは怪我のせいもあり、胃腸にこたえないもの中心に、腹八分目を心掛けていた。
しかし怪我が全快したとなると、やはり多少はガツンとしたものが食べたくなってくる。
それでも牛肉はやや重い気がするので、チキンステーキにライスとコーンスープのついたセットを注文することにした。
「遥くん」
オーダー用タッチパネルを見ているふりをしながら、円は小声でこっそり話しかける。
「木霊さんって、食事とかどうなってるの? もし何か食べたいとか飲みたいとかがあったら、注文するよ」
『いえ。食事は特に必要ありません』
少し離れたところから声がする。
雰囲気として、テーブルの斜め前の席に座っている感じだ。
だがこの声は、護衛の対象である円にしか聞こえないのだそうだ。
よく出来ているなあ、などと円は、のん気に思ってしまう。
『でもお水をいただけると嬉しいです。あ、出来れば氷は抜きで』
「そうなの? 遠慮しないでね」
オーダーにドリンクバーも追加し、円は席を立つ。
そして自分用にあたたかいウーロン茶を淹れ、遥用に氷抜きの水を汲んで戻る。
『ありがとうございます、いただきます』
声と同時に、テーブルに置いたグラスの水が半分ほど、一瞬で消えた。
「……おおう」
気の利いたマジックを見たような気分になった次に、彼はのどが渇いていたのかな、と、ちょっと心配になる。
もう一度席を立ち、円は水を汲んできた。
『あ、もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます』
やや恐縮した声が聞こえてきた。
「いや、遠慮しないでね」
小声でつぶやいた一瞬後、セットのスープを持ったウエイターが近付いてきたので、円はさりげなく手元のスマホを眺めるふりをした。
すごい状況の中に自分がいるのはわかっているが、小波に来て以来、色々とすごいことばかり起きているので、円の感覚はとっくにマヒしていた。
【eraser】として覚醒して以来、自分も大概『すごい状況』の渦中にいる人間だと思ってきたが、小波の『すごい状況』はまた一味違う。
おそろしいのはその『すごい状況』に、案外素早く慣れてしまえることかもしれない。
人間とはそういう図太い生き物なのかもしれないし……高校時代から否応なく『すごい状況』慣れしている、円だからそうなのかもしれない。
(まあ今は、その辺のことはいいや。これからの仕事に集中しなきゃ)
画面をなんとなくスクロールしながら彼はそう思い、頃合いに冷めたであろうスープに手を付ける為、いったんスマホを置く。
いかにもファミレステイストというか、ややジャンクな感じが舌に残るスープが、久しぶりだったからか妙に美味しく感じた。
仕事場である保健センターに着いた。
比較的新しい建物だ。
市の職員や他の医師や保健師、看護師などと挨拶の後、打ち合わせをする。
開始の時間が近くなると、三々五々と乳児健診の親子がやってくる。
(ああ。これは……眼鏡をした方がいいな)
簡単な内科検診を担当することになった円は、椅子に座ってスタンバイしていた。
ざわめき始めた会場を軽く見渡し、心でそうつぶやくと、円は、シャツの胸ポケットから眼鏡を取り出してかけた。
乳児を育てている保護者(主に母親)、特に第一子の保護者は、嬉しさや喜びよりも不安や疲労を、意識無意識に関わらず多く持っているものだ。
ネガティブな感情からは【dark】が生み出されやすい。
ほとんどは問題のない【dark】だが、数が多いと視界に直接影響し、リアルに円の視力が落ちる。
【dark】カットの眼鏡の出番だ。
が、その時。
どこからともなく、涼やかな笛の音が響いてきた。
(……え?)
円は思わず辺りを見回す。
聞き覚えのあるこの笛の音、おそらく遥が奏でているものだ。
だけど(当然かもしれないが)誰も気付いていない。
『九条さん。僕が笛を吹けば、ここは『緑蔭』に近くなります』
遥の声が聞こえる。
『天津神の方には説明するまでもないでしょうけど。大樹の木陰は聖域に近い効果があるんです』
円は声のする辺りに首を向け、目だけでかすかにうなずく。
『心を静める効果が上がれば、不浄もおのずと減ります。ですから、可能ならその眼鏡はかけないで下さい。本当に危険な不浄も、見落としてしまわれますから』
(わかった)
もう一度目だけでうなずくと、円はさりげなく眼鏡を外し、胸ポケットへしまった。
涼やかな笛の音が再び、響き始める。
ドピュッシーの『月の光』を思わせるようなメロディが、会場中を満たす。
検診に来た多くの親子が、緊張で引きつっているような表情だったが。
ゆっくり、だけど目に見えて、柔らかな顔になっていった。
ちょっと珍しいくらい、和やかで順調な乳児健診になった。




