11 朝Ⅱ②
さくやはその日、いつもとは違う朝を迎えた。
胸騒ぎのする夢から覚めた後。
さくやは気持ちを切り替え、いつもの日課になっている早朝のトレーニングをしようと支度した。
夢を引きずるのは良くない。
夢から与えられたメッセージの核は忘れないようにしなければならないが、夢そのものにあまりにも囚われてはならない。
日常が送れなくなる。
鮮やか過ぎる、過去の記憶と連動した他人の夢と共鳴するのは、月の一族の者にはちょいちょいあることでもある。
こういう場合は、あえて日常のルーティンをなぞるのがいい。
薄闇の残る夜明けの庭に出る。
その瞬間、いつもと違う何かをさくやは感覚の先端で捉えた。
「……ナンフウさん。おはようございます」
庭の主・和棕櫚のナンフウに話しかけた。
しかし、いつものような打てば響く反応がない。
沈黙している和棕櫚の木に、さくやは危機感を覚える。
「ナンフウさん? あの。だ、大丈夫ですか?」
ややあって、物憂そうな気配が和棕櫚の方から流れてきた。
「ああ。おはようお嬢。スマン、昨夜一睡もしてへんから、さすがに眠たいねん。話は昼以降で頼むワ」
寝ぼけたような声だ。
昨夜一睡もしてへん、に、彼女は首を傾げた後、アッと気付く。
(……そっか。昨夜の、九条さんの護衛はナンフウさんやったんや)
後ろめたい気分がきざすが、当然、予想されることでもあった。
三人の木霊たちの中で、瞬発力のある直接攻撃が得意なのはナンフウ。
不浄を祓う力そのものが断トツに強いのは大楠だが、忍び寄る不浄を叩きのめすようにして追い払うのを、三人中一番得意としているのがナンフウだ。
彼の特性は不寝番に適している。
「……わかりました。おやすみなさい」
ささやくように言い、さくやはその後、そっと部屋へ戻った。
自室で柔軟を念入りにし、簡単に一番基礎の型をさらう。
しばらくはこのメニューで過ごすしかないだろうな、と思いながら。
朝食後、登校。
いつもの流れだ。
だけどやはり、普段の朝と何かが違う。
小波の草木が挨拶してくれるのは変わらないのだが、何というのか……皆、大人しい。
あるいは、よそよそしい。
嫌われているというほどではない(多分)が、気遣われているあるいは距離を置かれている。
そんな感触がある。
(どうしたんやろ?)
疑問の次に、ぞっと背が冷えた。
(私が……『オナミヒメとして』、木霊さんたちに『緑蔭の癒し』を命じたから?)
天津神・エンノミコトの命を守る為であれ、最悪オナミから犠牲者が出る可能性の高い、残酷な命令をさくやは出した。
こう言うのは冷たいが、エンノミコトは所詮、余所者。
オナミヒメは余所者の命を惜しむくせに、オナミの奇跡とも言える比類のない木霊たちの命は惜しまない。
小波の草木が総意としてそう判断しても、さくやに言い訳の余地はない。
(……ごめんなさい、ごめんなさい)
それでもさくやは『緑蔭の癒し』を、九条から外す気にはなれない。
さくやは今朝方の夢を思い出す。
発作的に自傷するようなすさまじい孤独の中、あの少年は懸命に生きて、今に至っているのだ。
そんな彼をむざむざと殺されたくはない、それも怨霊に魅入られたからなどという理不尽な理由で。
さくやと遠い血縁のある、月の一族の娘の怨霊ならなおのこと。
エンノミコト――九条円を殺させはしない。
たとえさくやの人生に直接、彼の生き死にが関係なかったのだしても。
『オナミヒメ』として……結木さくやとして。
九条円を、殺させはしない。
『オナミヒメ』
優しい声で話しかけられ、さくやはハッとする。
気付けば津田高の校門をくぐっていた。
さりげなく立ち止まり、声の方へ顔を向ける。
桜並木の最年長の大樹……だった。
他の木たちは妙に大人しいが、桜の大樹の雰囲気はいつもと変わらない。
『おはようございます、ヒメ。あのう、余計なことかと思いましたけど。アケボノスギの遥さまは今、いらっしゃいませんよ』
「え?」
思わず小さな声が出てしまい、さくやは慌てて口をつぐむ。
『遥さまは今朝方早くから、エンノミコトの護衛のために本体から離れていらっしゃいますので』
「あ……」
つい癖で、中庭の遥に会いにゆくつもりでいたが、『緑蔭の癒し』をきっちり実行する為には、護衛対象の近くにいなくてはならない。
ナンフウが不寝番なら昼間は遥がその役を担うだろうし、小波中の樹木から情報を収集する本部として大楠が、24時間ずっと神経を張り詰めているだろう。
さくやが幼い頃、そうやって木霊たちがずっと守ってくれていたように。
さくやが『癒し』を必要としなくなるまで、頼むからそうしてやっていてほしい。
木霊たちに頭を下げて頼んでいた父の姿を、彼女は不意に、鮮やかに思い出す。
幼い頃のようながっちりとした護衛でなくなってからずいぶん経つが、ゆるやかな『緑蔭の癒し』はつい最近、それこそさくや自身が木霊たちに九条の護衛を命じるまで、続いていた……。
(忘れて、いた)
あまりにも日常だったから。
あまりにもさりげなかったから。
さくや自身、自分に『緑蔭の癒し』を付けられていたことを、失念していた部分がある。
ナンフウに武道を教わっていることも、登校の度に遥から新しい葉をもらっていたことも、小波中の草木がフレンドリーだったことも。
(お父さんが私に、『緑蔭の癒し』を付けてくれてた、から)
契約の期間は『さくや自身が必要としなくなるまで』。
彼らは忠実に、それを守っていてくれたのだ……。
『そして。『緑蔭の癒し』からの卒業。おめでとうございます、ヒメ。貴女様は以降、名実ともにオナミノイラツメ……オオモトヒメノミコトでいらっしゃいます』
並木の桜たちの、一斉に畏まる気配。
気圧されて一歩、よろめいたものの。
さくやは背を伸ばした。
「ありがとう、ございます。心細いですけどね」
つぶやき、苦笑する彼女から、涼やかな水の気配が発せられ……辺り一面に広がる。
草木が一斉に、寿ぐようにざわめいた。




