幕間 夢の話Ⅱ
結木さくやはその夜、奇妙な夢を見た。
さくやは何故か、見たこともない部屋にいた。
机にチェスト、いろんな分野の本がたくさん並んだかなり立派な本棚。
整った机の上には、やや旧式のノートパソコンもある。
机のそばにキャスター付きのハンガーラックがあり、制服らしいブレザーとスラックス、カッターシャツやニットのカーディガンなどが整然とかけられていた。
一瞥して、きちんとした性格の、おそらく同年代の少年の部屋だなという印象をさくやは持った。
不意にドアが開き、部屋の主が戻ってきた。
分厚いコートを着た、縁なしの眼鏡をかけた少年だ。
外から帰ってきたばかりなのだろう、やや茶色がかった柔らかそうな髪は風に乱され、くしゃっとなっていた。
本人の留守中に見知らぬ少年の部屋へ入り込んでいることに、さくやは一瞬あせったが、『これは夢』であることもわかっている。
そして、少年のリアクションや行動からも、彼には自分が見えていないことも。
後ろめたい気分ではあったが、夢の中の彼女は何故か『その場から動けない』。
まるで家具か置物のように、彼女は壁際に立ってじっとしているしかなかった。
少年はコートを脱ぐとハンガーに掛け、ハンガーラックの空いた部分に収納した。
コートの下は厚地の焦げ茶のセーターにブルージーンズ、という、地味な普段着だった。
そのまま彼は、がっくりと机の前に座る。重いため息を吐きながらやや乱暴に眼鏡を外し、目頭をもんだ。
(……あれ?)
この少年、見覚えがある。
絶対どこかで見たことがある。
でも誰だかわからない。
不思議な焦燥に胸が炒られるような心地がした。
少年は本気で疲れているようだった。
目頭をもんでいた手を離し、椅子の背もたれに身体を預けてぼんやりと部屋の一角を見ている。
寒さのせいもあるのか顔色が悪い。目の下に、うっすらと隈もある。
「せんせい……」
ようやく聞き取れるかどうかの声で彼は呟き、軽くまぶたを閉じて再び重いため息を吐いた。
かなり長く、彼はそのままの姿勢でぼうっとあらぬ方を見ていた。
さくやが心配になってきた頃、不意に彼は身じろいだ。
彼の視線は何故か、机の上にあるペンスタンドで止まっている。
そろっと右手を伸ばし、彼はペンスタンドの中からカッターナイフを取り出す。
表情らしい表情もなく、彼はゆっくり、カッターナイフの刃を出してゆく。
キチ、キチ、とでもいう刃を繰り出す音が、静かな部屋に不吉に響く。
(ちょっと……君、何してるのん?)
(アカンってば!)
不穏なものを感じ、さくやは叫ぶように制するが、少年の耳には一切、彼女の声は届いていないようだ。
それなりの長さまで刃を出すと、彼は、鈍く光る灰色の刃先を無表情のままじっと見つめた。
そして次の瞬間。
彼は、何の感慨もない顔のまま、カッターナイフを振り下ろす!
「……ってぇ」
ややあって、なんとなく間の抜けた声でそう言うと、彼は我に返ったらしい。
カラ、という音がして、カッターナイフが机の上に転がる。
その周辺に血が滴る。
彼は慌ててティッシュペーパーを引っ張り出し、傷口に当てた。
どうやら彼は、左手親指の付け根とでもいうところへカッターの刃を落としたらしい。
またたく間にティッシュが赤く染まる。
傷からあふれ出る血は、異様に赤くて美しい。
手首ではなかったが、そこも動脈だったのかもしれない。
彼はさっきとは別の意味で青ざめ、傷口を押さえながら部屋を出た。
階下へ降りて行く乱れた足音の後、ジャーッという水の音が聞こえてくるから、洗面所かどこかで傷口を洗っているのかもしれない。
ややあって、彼は戻ってきた。
左手親指周辺に、大きな絆創膏を不器用そうに貼り付けていた。
不自然に腕を持ち上げているのは、保健の時間に教わった応急処置の基本『止血の際は傷口を心臓より高くしろ』を実行しているのだなと、さくやは思った。
絆創膏はすでに赤く染まっている。
舌打ちするように彼は眉をしかめ、ありったけ持ってきたらしい絆創膏を机に置き、椅子に座ってそろそろと傷口の絆創膏を外す。
スパッときれいに切られているそこは、脈動と同時に血をにじませている。
「くそう。止まんねえな」
忌々しそうにそう呟くと、彼は再びティッシュで傷を押さえ、机の上に肘を乗せて『傷口を心臓より高く』するよう努めている。
しばらくそのままじっとしていたが、彼は不意にくつくつと笑い出した。
「はは。あはは。なんだよ、結局は死にたくないんじゃん、俺」
ははははは。
哄笑に近い笑い声が虚しく響く。
笑声はそのうち、抑え込んだ泣き声へと変わってゆく。
「はは。あはは……あ、はは。う……うう、ううう……うううう……」
「……九条さん!」
叫んだ瞬間、さくやは目を覚ました。
異常に心臓が脈打っていた。
(あれ、は……)
あれは、過去のいつかの出来事。
少年の日の、九条の辛い思い出のひとつだ。




