10 To be or not to be,that is the question.③
宿舎に戻り、キョウコさんと雑談したり明日の仕事の用意などをしていると、結木氏から電話がかかってきた。
午後8時に差し掛かる頃だった。
「失礼します。その後、おかげんは如何でしょうか?」
心配そうな結木氏の声に、円は笑みをまじえて答える。
「すみません、ご心配をおかけしています。ゆっくりしていましたから、ずいぶん回復しましたよ」
キョウコさんが目顔で合図するので、結木氏に断り、彼女と電話を代わる。
「彼の体調については、まず心配いらない。この辺は天津神の裏技を使ったからね。彼の強がりじゃなく、本当に回復している」
笑みをまじえて彼女は言ったが、ふと真顔に返る。
「私が心配なのは……そちらじゃない」
電話の向こうで結木氏が息を呑むような気配があった。
いくつかのやり取りの後、結木夫妻が今から来てくれることになった。
「キョウコさん、あのう。話なら、別に明日以降の時間のある時にでも……」
円は言う。
結木夫妻も疲れているはずと思うと、円としては申し訳ない。
「そうかもしれない」
彼女は言い、軽く目を伏せた。
「だが、私としては早く手を打っておきたいんだ。彼らと共闘する必要からも、な」
彼女は無表情だったが、そこはかとなく、いつものような余裕が感じられない。
円としては黙るしかなかった。
ほどなくして結木夫妻が来た。
結木氏は円と目が合うと、安心したように柔らかく笑んだ。
「顔色、良うなりましたね、九条さん。ご飯は召し上がりましたか?」
宿舎のリビングダイニングの座布団の上に座りながら、彼は言う。
「はい、お蔭さまで普通に美味しく食べられています」
円が答えると、結木氏はベテランの内科医のように鷹揚に頷き
「そうですか、いいですねぇ。食事が出来るようなら心配ないでしょう。ウチの子ォらも九条さんのこと心配してましたけど、これで安心します」
と言った。
ただ、その隣にいる夫人の顔色が冴えない。
結木氏の隣で円を見る彼女の目の色が、常より陰っている気がする。
「九条さん」
緊張の感じられる声音で、夫人――神鏡の巫女姫――が呼びかける。
「さっそくで申し訳ないんですけど。アチラでの体験や見てきたことを……思い出す限り、私へ教えていただけませんか?」
そのためにこの二人がわざわざ来た、ことは、円だってわかっている。
が、素直に言葉が出てこない。
「アチラは、息を呑むほど美しかったでしょう」
結木氏の声がのんびりとした感じで響く。
「私が初めてアチラへ行ったんは、ちょうど蒼司と同じ14歳でしたけど。あんまり綺麗であんまり何にもないんで、ポケッと突っ立ってるしか出来ませんでした。突っ立ってボーッと空、見てると、なんか無性に歩きたくなってきましてねえ……」
「そう、ですね。そんな感じでした……」
ようやく言葉が出てきた。
円はゆっくり思い出しながら、時にはつっかえつつ、見てきたことや体験を語った。
適当に濁してしまいたい箇所がいくつかあったが、神鏡の巫女姫の視線がそれを許さない。
時に何故か吐きそうになりながらも、どうにか円はすべて語った。
「……お疲れさまです、九条さん。あなたはすごいですね」
ようやく表情を緩め、夫人は言った。
「初めてアチラへ行って、ここまで真っ直ぐ自分の心の底へたどり着ける方も稀ですよ」
「そう、でしょうか?」
額に浮いた汗を軽くてのひらでぬぐいながら、円は答えた。
何故か身体が震えている。
やや気の毒そうに夫人が眉を寄せた。
「自分の心の底なんて誰でもあまり見たくないものですし、それを他人に語るのは強い抵抗がありますよね。吐き気や身体の震えは、そのせいです」
「そう……、なんですね。別に、大した経験を話しているのでもないのに。お恥ずかしいです」
「いやあ、むしろ誇って下さい」
結木氏は言う。
「そこまで近々と、あなたにとっての神、つまりはユニコーンですけど。目ェ合わせて話が出来る人も、そうはいませんよ」
「は? アレ……、神なんですか?」
思いがけないことを言われ、円は首を傾げて二人に問う。
神は神でも死神ではないかとも、ちらっと思った。
夫人がうなずく。
「あそこが『神の庭』と呼ばれているのはそのためでもあるんです。『神の庭』で出会うモノは自分自身であり、かつ自分が捉えることの出来る、神……神聖なモノの姿というか象徴、そういうモノなのです」
「……はあ」
はあ、しかなかった。
自分自身であり、かつ自分が捉えることの出来る神?
ずいぶん哲学的というか……訳わからん、というか。
仕事柄、数値や理論に基づいた現実になじみ過ぎるほどなじんできた円だ、形而上学的な思考を弄ぶことをしなくなって久しい。
大学の一般教養で、哲学や禅についての講座をちょっとかじった程度の知識ではついていけない……いやまあ、一般的な知識や教養の話はおそらく関係ないだろう。
これは、結木夫妻やその子供たちが知る現実の話なのだから。
「ちょっと気になるんが」
結木氏が初めて、声のトーンを落として話し始めた。
「九条さんがアチラで、恩師に当たる方と会いはったという部分ですね。アチラは普通、自分と自分の神さんとのガチンコ対決といいますか、それこそバスケの1:1みたいに対峙する場、なんです」
「私は審神者としての能力はさほど高くないですから、参考程度に聞いていただきたいんですが」
考えながら、夫人は言葉を紡いでゆく。
「九条さんは今、二つに裂かれている状態なのでしょうね。お話を聞く限り、九条さんご本人も掴みかねている九条さんの願望が、『生きたい』と『死にたい』ではないかと。どちらもご本人の願望であり、二つの望みは拮抗しているのでしょう。拮抗している限り現状維持となりますから、結果的に九条さんは、穏やかに日常を送れていたのです」
夫人はそこで、大きく息を吐いた。
「九条さんの『死にたい』という願望の持つ美しい闇に……彼女が、惹かれてしまったせいで。拮抗が崩れ、どちらかを選ぶ、必要が出てきてしまった。今回の一連の出来事は、おそらくそういうことだと思います」




