9 神の庭Ⅱ①
結木蒼司はその夜、自室のベッドに横たわりながら、神事の場からこっそり持ってきた不思議なもの――所々に焼け焦げめいたものがある、紙とも布ともつかない、半分にちぎれた付箋紙程度の大きさのもの――を、眺めていた。
自宅に帰った後。
結木家の子供たちは、着替えも許されずにリビングの椅子へ座るよう、母から命じられた。
そして母は、姉のさくやを叱り始めた。
「さくや。神事の最中に立会人が割り込むなんて、どれほど危険かわかっているでしょう? 冗談抜きで、神事を行っている祭主や九条さん、それからさくや自身も命を失うかもしれなかったんですよ」
怒りをひそめた静かな叱責は、大声で怒鳴られるよりも恐ろしい。
隣で聞いているだけの蒼司であっても、身が縮むような心地がする。
「……は、い。申し訳ありません」
こわばった表情で姉はうつむく。
「どうしてあんな危険なことをしたの? 理由を言いなさい」
母の問いに、姉は訥々と語る。
「あ、あの。わかり、ません。ただ……その。あの時のあの場を、放置できへんっていう、なんかすさまじい、衝動? そういうのが起こったんです。放置して、万が一九条さんが地面に倒れ込んだりしたら。取り返しがつかへん、そう思ったんです。あの、理由は……、不明、です、けど」
母は難しい顔をすると、黙ったまま軽く目を伏せた。
しばらくそうしていたが、思い直したのか、小さく息をついて顔を上げ、再び姉の顔を真っ直ぐ見た。
「それ以前に、根本的な疑問もあるわね。さくやは何故あの時、『月のはざかい』の中へ入れたの?」
姉はきょとんとした顔で母を見返した。
「あの場は、私と九条さんを囲む、小さな円状の結界が敷かれていました。神事を行う者と受ける者だけが在れる場、神事を受ける者が『神の庭』へと至る為の場……と設定していましたから。基本的に祭主と九条さん以外『はざかい』の中へは入れないし、入ろうとしたら弾かれる、筈だったんだけど」
姉は不可解そうに眉を寄せ……あっ、という顔になった。
「そう、でした。……え? でも。せやけど別に、何の抵抗もなく九条さんの前まで行けたんです、けど?」
「そう、よね……そうとしか見えなかった」
「あのう……」
そろそろと小さく右手を上げ、蒼司は母へ合図した。
「隣で見てただけの、印象なんですけど」
母が目で促すので、蒼司は続けた。
「ねーちゃんがはざかいの中へ飛び込む瞬間。ナンちゅーのか、気配? 気配って言葉で正しいのか自信ないんですけど、あのう……、あの場所ってのか。いや、どっちか言うたら『おもとの泉』かな?泉の気配とねーちゃんが、同化した、みたいな、そんな印象が……」
「泉の気配とさくやが、同化した?」
大きく目を見張ってそう繰り返す母にただならぬものを感じ、蒼司は怯む。
「えと、あ、あの。ただの、印象やで? その後、わちゃわちゃになって神事は強制終了やしで、ちゃんと見極める暇もなかった……」
「いいえ。貴重な情報です、ありがとう蒼司」
母はそう言うと、とりあえず先に着替えましょうかと、小さく笑ってみせた。
こわばってはいたが何か納得したような、どこか寂し気に見える笑みだった。
皆が着替えを済ませた頃、父が戻ってきた。
なんとなくむっつりとしていて、蒼司はもちろん母も姉も怪訝そうでありつつ、緊張した。
「さくや」
低い声で父が、姉を呼ぶ。
「お前さん。小波の木霊さんらへ、九条さんに『緑蔭の癒し』付けたってくれと命令したそうやな……オナミヒメとして」
(えええ?)
蒼司はぎょっとして、まじまじと姉の顔を見た。
(オナミヒメとして……、命令、やて?)
オイオイ、マジか。
(『緑蔭の癒し』は基本、木霊の、昼夜を問わん霊的な護衛やろ?)
そもそもは不浄の依代になりやすい姉の心身を守るため、父が、木霊たちに頭を下げて頼んだことが始まりだ。
最近は姉も強くなってきたので、三人でがっちり守っているという感じではなくなっている。
が、それでも家にいる時はナンフウ、外を歩く時は大楠、高校内は遥が、それとなく姉を見守ってきた。
ひょっとすると姉は、近年の木霊たちの護衛があまりにもさりげないので、自分が守られてきたことすら忘れているのかもしれない。
そう思うと、ちょっと……もやもやした。
蒼司にがっちり『緑蔭の癒し』を付けられたことはない。
なまじ蒼司の能力が高く、対抗策を上手く使えるが故に、結果として放置されてきたのだ。
自分だって本当は、木霊たちともっと関わりたかったし……守ってもらいたくもあった。
蒼司の姉である結木さくやが元々、オナミの草木から『オナミヒメ』と呼ばれて特別扱いされているのは知っている。
蒼司は物心がつく頃から、父である結木草仁がこの土地の氏神の化身といえる存在であり、姉は『水神の娘・オオモトヒメノミコト』の化身であると、大楠や遥、庭木のナンフウからちょいちょい、聞かされてきた。
だがそれは、なんとなくだが、蒼司としてはある種のシンボル、言葉を変えると『名誉職』のようにも感じていたのだ。
父や姉の、『格』――人間的も霊的にも――を見下す気はなかったし、侮れないナニガシかを感じてもいる。
だがそれは、母あるいは自分が顕現できるような、誰の目から見ても凄いと言われそうな能力を持つから、ではない。
たとえば、ある人がかつて王と言われた人の子孫だとすると、なんとなく彼ないし彼女に特別なものを感じる、そんな感じの『威』であり『格』のようなものとして受け取っていたのだ。
父はまだしも本当に『威』を持っているが、姉のさくやは小波の草木たちのアイドルのように、蒼司は無意識で思っていた。
姉は月の一族の姫としては十分な能力を持っていたが、この世代の最高の能力者は、うぬぼれではなく蒼司だ。
将来『鏡』を務めるのなら、蒼司の方がずっと相応しい。
実際、ツクヨミノミコトからも蒼司は、『月の若子』……つまり、一族の慣習として次代の長を指す呼び名をもらった。
そこもあるからか、蒼司の知る限り姉は、引っ込み思案というか大人しいというか、自分を抑えて他人へ譲るというか、そんなタイプの人だ。
彼女のいい面であり、イラッとさせられる面でもある。
そんな人が……、木霊に命令?
姉の顔色はみるみる悪くなったが、彼女は静かに父の目を見、
「はい」
と、低い声ではっきり答えた。
「出過ぎた真似やと思います。でも必要やと思いました。あの人を、死なす訳にはいかんでしょう?」
「それは当然や」
父はむっつりと答える。
「あの人であろうとなかろうと、死んでエエ人なんかこの世におらん。ましてや理不尽な呪いで殺されるなんて、論外や。九条さんは縁あってウチのお客さんとして来やはった人や、お父さんも出来る限りのことはするつもりでおる。せやけどな。お前さんの一存で木霊さんらに命懸けろという命令、まずは彼らに対して失礼やし、多少は自覚してるやろうけど、小波の産土神を差し置いた、出過ぎた真似でもある」
姉の顔色がさらに悪くなった。
「……それでも。オナミヒメとして命じてしもたんや。この件については、お前さんにすべての責任がくる。いいことも悪いことも全部、お前さんの責任や。もう一回そのこと、ちゃんと考えて、腹を括りや」
父は静かな口調でそう言うと、着替えてくると踵を返し、自室へ向かった。




