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8 神の庭③

 ハッと我に返ると、円はただ一人、よくわからないところにいた。


 ゆっくりと辺りを見回す。

 視界すべてが真っ白な大地と青い空。

 果てしなく広がる、霧のような微細な粒子に覆われた白い大地。

 まさに雲一つない、深い深い、あっけらかんと青いだけの空。

 無音であり、無風。

 ただ白と青だけに囲まれていて、視覚に必要なだけ十分、明るい。

 他には何も……本当の本気で何も、ない。


(これが……、『神の庭』?)


 結木夫人――神鏡の巫女姫――から、話には聞いていた。

 しかしこの圧倒的な『何もなさ』、絶句するしかない。

 呼吸すら憚る気がした。

 己れがこの場にいる、という異物感がとにかくいたたまれない。

 寄る辺を探すように彼は、何かを考える前にふらふらと歩き始めた。


 一体、どのくらい歩き続けたのか。

 どれだけ歩いても景色はまったく変わらない。

 広い広い、白い大地と青い空。

 無音で無風。

 そもそも踏みしめている(筈の)大地から、『踏みしめている』感覚すら返ってこない。

 まるで空気を踏んでいるかのような感触。

 不意に彼は、大地の底が抜けて奈落へ落ち込むかもしれない恐怖を覚え、立ち止まる。

 やるせなく空を見上げた。

 どこまでも青い空。

 見つめていると、本当はそちらが地面ではないかという錯覚に陥り、眩暈がした。


(……発狂しそうだ)


 逃げるようにまぶたを閉じ、彼はうずくまる。

 意味もなく体が震えてきた。


(帰りたい……)


 心に浮かんできた言葉。

 浮かんだ瞬間、その言葉……概念に、『九条円』という名の人間――否、生き物と表現する方が正しいかもしれない――の全存在が、激しく執着した。


(帰りたい!)(嫌だ、もう嫌だ!)(帰りたい! 帰りたい!)(一人きりは嫌だ、もう嫌だ!)(寂しい、寂しいんだ!)(帰りたい! お願いだから帰らせてくれ!)(……帰れない、のなら)


「……死んで、しまいたい」


 唇から漏れ出した言葉。

 言った次の瞬間、自分で自分の言葉にぎょっとしたのと同時に、円は深く納得する。


(ああ……そうか)


 己れの心の一番奥にある、硬く冷たい、ごく小さな望み。

 小さいくせに決して消えることのない、望み。

 生まれ落ち、物心がつく頃から抱えていた望み。

 己れが、生きて在ることへの疎ましさ。


角野先生(スイ)……!)


 あなたが心のどこかで、常に死にたがっていたのは。

 大好きだった女の子を守れなかった罪の意識のせいだと、俺は思い込んでいたけれど。

 本当はその前から、あなたはずっと『死にたかった』んだ。



 涙があふれた。

 【eraser】などという器は本来、人間(ヒト)が持つには過ぎる器だ。

 こんなものを抱えた人間が、人間としてまともに生きてゆくのは難しい。


(疲れた……)


 そうだ、自分はもうずっと前から疲れていた、人間であり続けることが。



「……では。死ぬか?」


 冷ややかで硬質な声が不意に問いかけてくる。

 なんとなくキョウコさんの声に似ているが、男の声だ。

 円はぎくりと顔を上げ……自分の正面にいる、白い獣に気付く。

 輝くような白い体毛、銀のたてがみに細く長い角を持つ、馬に似た獣。


(……ユニコーン)


 時々夢に出てくる、『円のもうひとつの姿』であるユニコーン。

 こうして外側から客観的に見ると、意外と小さいというか華奢な獣だったのだなと、ぼんやり円は思った。


「答えろ九条円。では死ぬか? それがお前の、一番の望みなのか?」


「一番の望み?」


 ユニコーンが足音もなく、近々と寄ってくる。

 黒曜石を穿ったようなユニコーンの瞳が、円の瞳の奥を覗き込んでくる。


「死にたいのならすぐ死ねる。ここは生と死のはざま。お前が今、空だと思っている(アチラ)へ、大地だと思っている(コチラ)を蹴って、飛び込め。それだけで永遠の眠りはお前のものだ」


(永遠の、眠り……)


 その言葉はひどく蠱惑的だった。

 無意識のうちにふらりと、円は立ち上がる。


「……ケッ。ごちゃごちゃとうるせ」


 吐き捨てるような口調で誰かが、不意に円の後ろで言った。

 刹那、白銀の細い円錘が円の後頭部から額にかけて貫通し、ユニコーンの瞳へ達して黒曜石の輝きを潰した。


「……九条君。自分の【dark】の掃除はマメにしなさい」


 懐かしい声。懐かしい口調。

 あわてて振り向いた円へ、その人はニヤリと、片頬だけで笑んだ。


「先生!」


 その人は一瞬サムズアップをすると、現れた時と同様あっさりと消え、いなくなった。


「九条円! すべてを丸く包み込む、太陽()にも海にも大地にも似た大きな器を持つ者であれかし、と名付けられし者よ! はざかいの主が命じる、疾く戻れ、 現世(うつしよ)へ疾く戻れ!」


 焦りのにじむ叫びが円の耳元で響く。

 胸倉をつかまれたような感触と同時に円は、とんでもなく強い力で白い大地の中へと引きずり込まれ……。



 気付くと彼は。

 旧野崎邸の庭にある祠の前で、何故か左右の肩を結木夫人とさくや嬢に支えられ、両膝をついた状態でひゅうひゅうと荒い息をついていた。

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