6 転換③
「九条さん!」
さくやは叫び、倒れかけた九条の身体を素早く支えた。
境内いっぱいに広がる、白銀に輝く浄化の円陣。
足元から強い力で、余分なものが剥ぎ取られてゆくような感触。
滝の水を頭上から浴びるのではなく、噴水の上に立って足元から頭へ向かって水が叩きつけられるような心地。
九条の右手が、蒼司の口許をそっと包み込んだ。
刹那、そこから眩しい白銀の光があふれる。
蒼司にこびりつく不浄は、瞬く間に浄化された。
九条は心の底からホッとした顔で笑い、
「もう、大丈夫でしょう。【dark】……不浄は消えました」
と言った。
境内いっぱいに広がった、彼の身体から発した白銀の円陣がゆっくりと消えてゆく。
圧倒的な『天津神の御力』を初めて目の当たりにした皆は、そこでようやく、戒めを解かれたかのように呼吸を再開した。
何度も頭を下げる両親、まだぼんやりしている蒼司、あっけに取られたように目を見開き、硬直している大楠。
困ったような顔で笑いながら手を振る九条の顔色が、何故かみるみるうちに悪くなっていくのにさくやは気付く。
ぐら、と、彼の身体が不自然に傾いだ。
「九条さん!」
考えるよりも先に、彼女は九条の身体を支えていた。
九条は驚いたように目を見張り、さくやの方を向いたが、焦点が合っていないように見えた。
「すみません、ちょっと……疲れました」
引きつった作り笑いを浮かべ、彼はさくやへ向かってそんなことを言う。
多分、誰に言っているのかわかっていないだろう。
「宿舎へ帰りますね」
そう言って歩き出そうとしたが、明らかに方向感覚が狂っている。
帰るのならば鳥居へ向かわなければならないのに、反対方向である『義昭の楠』の方へ向かって、彼は決然と歩きだした。
大楠が腕を伸ばし、癒しの力を持つ『フィトンチッド』を九条に嗅がせた。
彼の身体から力が抜けたのを見計らい、父が彼の肩をかつぐ。
「九条さんは父さんが宿舎へ送ってくる。さくやは母さんと、蒼司を連れ帰ってくれ」
さくやはうなずくしかなかった。
足元のおぼつかない蒼司を家へ連れ帰り、寝かせる。
蒼司はひどく落ち込んでいるらしく、ろくにものも言わずにベッドへもぐりこんだ。
何も食べていない蒼司を心配して、母がありあわせの材料で手早く雑炊を作って部屋へ持って行ったが、食べたくないのか生返事をするだけでベッドから出てこない。
母とさくやはリビングに座り、のろのろとお茶を飲みながら黙って向かい合っているしかなかった。
父が帰ってきた。
蒼司はと問うので、自室で布団をかぶっていると告げる。
そのまま彼は蒼司の部屋へ様子を見にゆき、しばらく帰ってこなかった。
聞くと、半ば無理矢理食事をさせたと父は苦笑い気味に言った。
リビングでお茶を飲みながら、父は九条のことを話す。
とりあえず宿舎へ送り、布団を敷いて寝かせてきたそうだが、父の顔は浮かない。
「あの人、もしかしたら怪我が悪化って言うのんか、傷口が開いたのかもしれへん、本人は大丈夫って言うけどな。冷や汗ひどいし、痛みのせいか呼吸も浅いし。しばらく休んだら治まるはずやからって言うてはるけど、後でもう一回、様子見てきた方がエエやろうな」
万が一の場合は救急車を呼ばなあかんな、と、真顔で父は言う。
さくやは血の気が引いた。
ツクヨミノミコトに警告されていたのに、間に合わなかったのかもしれない。
「ご本人が大丈夫って言うんだから。大丈夫じゃないの?」
あの方はお医者さんだしと母が言う。
「まあそうやろうけど。それでも一応、後でもう一回、様子見てくるワ」
父が言うと、母もうなずく。
「そうね、その方がいいかも。あの人のお昼用に、簡単に食べられそうなものを作るから、碧生さん持って行ってあげて」
「私も手伝う」
普段それほど自己主張しないさくやがいきなりそう言ったので、両親は驚いたようにさくやの顔を見た。が、すぐ母はにっこりして
「じゃあ、お願いね」
と言った。
「九条君」
耳に馴染みのこの声は……キョウコさん?
「気が付いたみたいだな」
円は目を開ける。何故か宿舎の天井が見えた。
どうやら自分は、布団の中で寝ているらしい。
顔を動かすと、出口に近い方の枕許にキョウコさんが、白いレースを控えめに飾った、黒のベルベットのワンピースを着て座っていた。
あわてて身を起こす。
脇腹に鈍痛があるが、起き上がれなくはない。
起き上がってみて、普段着のシャツとデニムのまま布団の中にいたことに、誰よりも円自身が驚いた。
「君は小波神社で蒼司くんを浄化した後、体調を悪くした。覚えているか?」
しばらく考え、
「……ああ。はい。思い出しました」
と円は答えた。が、その後ここで横になるまでの記憶は丸ごと無い。
「だけど、ここで横になるまでの記憶はない」
キョウコさんに淡々と指摘され、円は詰まる。
「結木氏が君を、肩に担ぐようにしてここまで連れてきてくれたんだよ。君の体調があまりに悪そうだったから、彼は心配して、医者を呼ぼうかと何度か言っていた。君は頑ななまでに断っていたけどな」
「そう……なんですか? うーん、覚えてないです。結木先生にずいぶんご迷惑をかけましたね。後でお詫びとお礼を言わなければ……」
「お詫びとお礼なら、ついでに私にも言ってくれ」
そっけなくキョウコさんは言った。
「緊急事態と判断し、内出血していた君の怪我をエリクサーで治療した。傷跡もない完治までとは至らないが、内出血はきれいに治っただろうし、腹膜炎をおこしかけていたのも抑えた」
「……え?」
彼女はふっとため息をついた。
「君の相手はかなり手強いな。たとえ自分が小波の敷地内に入れなくても、ターゲットやターゲット周辺にいる人の夢には忍び込めるみたいだ。今回、君や蒼司君の夢に入り込んで、色々と悪さをやってくれたらしい。これはちょっと……結木家の人たちとも協議し、対抗策を練らなくてはなるまい」
円は絶句し、人形めいたキョウコさんの顔を凝視した。彼女は真顔で続ける。
「ぼんやりしていたら夢を通じて生気を吸われ、君や結木家の子供たちの命に関わる事態になる。相手を甘く見たわけではないが……想定以上だ。結木家の人たちにも、余計な迷惑をかけることになってしまった」




