5 月と語らう②
結木蒼司はそれからすぐ、帰宅した。
出てきたついでと円はサンダルのまま、旧野崎邸の敷地内をぐるっと一周してみる。
敷地全体でちょっとした公園くらいの広さがあるのに、歩いてみて円は、改めて知って驚いた。
これが一個人の住宅なのだから、庭や建物の管理費や固定資産税が大変だろうなあ、と、つい俗物的なことを考えてしまう。
しばらく歩いていて、そうか蒼司君は今日、土曜日だから学校が休みだったんだ、と円は気付く。
考えてみれば中学生の彼が、平日の午後1時頃にウロウロしている訳がない。曜日の感覚がすっかりなくなっていることに、円は改めて危機感を持つ。
来週からの仕事で、その辺のリズムをしっかりつかまなくてはなるまい。
聞いたところによると、蒼司君は今まで、暇を見つけてはあの場所でフルートの練習をしてきたのだそう。
確かにこれだけ広ければ、遠慮せずに楽器の音が出せる。いい練習場所になるだろう。
多少公私混同は否めないが、元々結木家は野崎の当主と親しかったという話だ。
野崎の当主にとって結木家の子供たちは孫のような存在だったと、これはキョウコさんからも聞いている。
当主存命時に蒼司君は、敷地内の好きな場所でフルートの練習をしていいという許可をもらっていたそうだ。
ここが完全に市の施設――当主夫人は存命で、土地や屋敷の所有権は正式にはまだ野崎家にあるそうだ――になるまでは、結木家の子供たちにとって『祖父母の家の庭』的なもの、練習場所としての使用も黙認されているようだ。
(大楠さんから話を聞いて、野崎家が泉と因縁が深いこととか、泉をもたらした水神を、野崎家や代々小波に住む地元の人たちは大いに敬っているって、わかってるけど……)
公私のけじめがあいまいで、それでいいのかな? とちょっと思う。
お蔭で自分も恩恵を受けているのだから、基本、文句を言うつもりも筋合いもない。
地縁というか、その土地のしきたりや感覚は、余所者にはわからないことが多いもの。
結木氏や結木家の人たちがこの土地にとって、他には代えがたい重要人物、言葉を変えればある種の奇跡であることは、一応円も頭ではわかる。
が、(この良く言えばおおらか、悪く言えばいい加減な公私のけじめが)胸にストンと落ちてこない。
今のところ円にわかるのは、結木夫妻は気持ちのいい人たちであり、結木家の子供たちもいい子そうだ、ということだけである。
そしてまあ……それ以上、理解する必要も関わる必要も、ないこともわかっている。
円は所詮、たまたまこの土地に立ち寄った、少しばかり滞在時間が長いだけの旅人だ。
それは気楽で……少しばかり、寂しい事実でもあった。
夕食後、テレビもSNSもシャットダウンし、円は、庭に面した引き戸を開け、夜空を見上げる。
月が出ていた。
満月ではなさそうだが、そこそこ太った明るい月だ。
開け放した引き戸のそばで、円は久しぶりに、恩師の形見のジッポライターを取り出す。
彼が亡くなった後。
【home】の彼の私室の遺品整理をしていて、円は、封を切ったばかりの煙草の箱、愛用のジッポライターと携帯灰皿を見つけた。
彼が吸っていた煙草は特別製で、大雑把に言うのなら体調を整える薬の役割を果たすものだった。
ただ、彼のように一日1~2箱コンスタントに吸うのでなければ、それほど心身に影響はないことをキョウコさんに確かめ、円は、彼の月命日に墓参りに行くたびに1本だけ、線香を立てるように吸ってきた。
一周忌を過ぎてしばらくしてから、さすがに箱は空になった。
ライターの手入れはしたが、円個人は煙草を吸おうとは思わなかった。
手入れの後に新しいオイルをしみこませ、石を擦って火を点ける。
我ながら感傷的だと思うが、オイルのにおいや石を擦る音、炎の色を見ていると、ちょっと情けないところのある、それでも彼なりにとことん己れを貫いたという意味で格好いい、ひとりの男――円の恩師で相棒である、角野英一を思い出す。
彼のように生きたいとは思わないが、いつ何時、彼の前へ出たとしても恥じない生き方をしたいとは思っている。
月の輝く下、何度かライターの石を擦ってぼんやり火を眺めた後、円は、部屋着にしているスウェットパンツのポケットから、古い携帯灰皿と真新しいメンソール煙草の箱を取り出す。
夕方のうちに近くのコンビニエンスストアで買ったものだ。
パッケージを破り、本当に久しぶりに紙巻に火を点け、深く吸う。
恩師の墓前で吸った薬剤煙草の味とは違うが、それでも軽めのメンソール煙草が一番、市販されている物の中では味が近い。
習慣的には吸わないが、1~2年に一度くらい、吸いたい気分になる。
メンタルが落ちている時に吸いたくなるのかもしれない。
大抵は3~5本吸えば満足するから、1箱のほとんどが残ってしまってもったいないが、精神安定剤だと思えば安いものだろう。
1箱以上、自棄になって吸い続けたのは今のところ、ご多分に漏れず失恋時だけである。
虫の声を聴きながら月を眺め、円はゆっくりと煙草をくゆらす。
恩師もこんな感じに、月と自分だけのような気分で煙草をくゆらす日があったのだろうか、と、意識と無意識の狭間で彼は、ぼんやり思った。




