4 小波で暮らす⑤
翌朝。
昨日色々あった割にはよく眠れた。
円はスズメのさえずりをBGMに、顔を洗って朝食の準備をする。
時刻は午前六時半。
大体、いつも起きている時間に目が覚めた。
習慣というものはすごい。
ぼんやりとそんなことを考えながら彼は、焼いた食パン2枚にバターを塗る。
昨日の残りのシャインマスカット半房を洗って皿にのせ、電気ケトルで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを入れ、そこへ多めに牛乳を入れてカフェオレ風のものを作る。
たまごをひとつ割りほぐし、塩コショウ。簡単にスクランブルエッグを作って、直接トースト1枚の上に乗せる。
小さなテレビのスイッチを入れ、朝の情報番組などを見ながらゆっくり食べる。
なかなかいい朝だ。
朝食後、服薬。
後片付けを済ませ、軽く散歩に出ることにする。
念のため、スマートフォンでこの辺りのマップを検索し、小波神社の位置を確認した。
すぐそこ、というくらい近い。『散歩』と呼ぶには歩く距離が短いが、まあいいだろう。
『小波神社の義昭の楠に、一日一度は会いにゆくこと』。
我らが女神様・キョウコさんからのお達しでもある。
昨日、彼にはずいぶんと迷惑をかけたようだから、どちらにしても一度は訪れ、礼と謝罪が必要だろう。
(……やれやれ)
己れの与り知らぬところで余計な騒ぎが広がってゆくこの状態に、彼はいい加減うんざりしていたし、疲れてきてもいた。
早くケリをつけてしまいたいが、キョウコさんは待てと言う。
気力体力が今の状態では、怨霊……【dark】に呑み込まれかねない、と。
(確かに今の俺じゃ心許ないかもしれない。俺を刺すよう彼女をそそのかし、病院の地階で浄化された【dark】の狙いはその辺か? 仮に俺が相手に呑まれてしまったら……規模は小さいながら【Darkness】が発生してしまうだろうからなぁ)
【Darkness】など、たとえ規模が小さくても発生しないに越したことはない。
円とて一度は【Darkness】と戦った身、アレがどれほど厄介なモノか、骨身にしみている。
(【Darkness】を完全浄化させるほどの【eraser】も、そうはいないしなぁ)
円ひとりで【Darkness】を浄化させることなど、とてもじゃないが無理だ。
そして円と同等以上の【eraser】も、今のところいない。
それがわかっているからこそ、キョウコさんも慎重になっている。
(発生した【Darkness】が世界の破滅を願った瞬間、彼女は秒で全世界を滅ぼすだろうし。唯一【Darkness】と対抗できる可能性のある俺までもがアチラ側に呑まれれば、そうするしか対抗手段がない)
彼女の仕事は【eraser】の管理だけではない。
そもそもは、全世界の循環がスムーズに進むよう管理することこそが【管理者】本来の仕事で、そのサイドミッションとして【eraser】の管理しているのが実際だ。
ふと円は、結木氏が以前【home】のリビングで、『天津神の御力は問答無用なもの』という表現をしていたのを思い出す。
その時は聞き流したが、あれには深い意味があるのだと気付く。
また、『天津神』というものに対する、小波の木霊たちの恭しい態度の裏にある恐れ……のようなものも、なんとなく感じている。
今まで近しく付き合ってきたキョウコさん――【管理者】だが。
彼女の力はオール オア ナッシングなのだと、円はここに来て改めて気付く。
【home】の管理や『戦場エリア』の設定はともかく、現実世界に対して彼女が持つ選択肢は、『すべてを生かす』『すべてを滅ぼす』の二択。
1と0しかない、まるでコンピュータのプログラムのようだ。
彼女自身は何も言わないものの、そういう自らの在り様に悩んでいるというかもどかしく思っているらしいことは、さすがに長い付き合いになる円は察しているが。
彼女が【管理者】と呼ばれる人類とは次元の違う存在である限り、どうしようもない部分なのもわかる……。
不意に響く涼やかな葉擦れの音。
円は、堂々巡りに近い物思いから覚める。
足はいつの間にか、小波神社へ向かっていたらしい。
鳥居をくぐると、爽やかな風が身体の中を吹き抜けたような心地がした。
ひとつ深呼吸をし、彼は、まず作法通りに手水舎で手を清め、本殿へ挨拶した後、向かって左隣の神木の方へ近付いた。
楠の巨木の根元に、今日は普段着なのか、渋い緑のポロシャツに焦げ茶色のチノパンを合わせた巨漢が、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「おはようございます、九条さん。昨夜はよく眠れましたか?」
大楠が、昨日のような気の置ける態度ではないのに、円は心底ホッとしながら応える。
「おはようございます。はい、お蔭さまでぐっすり眠れました」
「そうですか、それは良かったです。慣れない場所ではなかなか寝付けないとよく聞きますからね」
再び、ざざあと葉擦れの音が響く。
心の中にあった諸々のわだかまりが、ふっと、訳もなく軽くなるような心地がした。
「木霊の私にはこれというおもてなしも出来ませんが、そうですね。せっかくですからこの年寄りの知る、昔話でもいたしましょうか。そもそも小波がオモトノミコトと深い縁を結ぶようになった、きっかけの話などは? もしそういう民俗学的な昔話がお好きでないのでしたら、別の話……そうですね。我らが主である結木草仁と神鏡の巫女姫とのなれそめなど、どうでしょう?」
「私が聞いていい話でしたら。どちらのお話も、お聞きしたいですね」
円が答えると、大楠氏はにっこり笑った。
どこからともなく取り出した木の椅子を円に勧め、自らは自分自身の本体である巨木の幹にもたれるようにして胡坐をかき、ゆっくりと話し始めた。
「古い古い、昔の話です。この辺りにあった村に、三太という若者が暮らしていました……」




