4 小波で暮らす①
宵闇の中、円は結木氏の車で結木邸へ向かう。
『向かう』と言っても、旧野崎邸からは気が抜けるほど近かった。
これなら歩いた方が手間がなかったかもしれないと、円は申し訳ないような気分になった。
「どうぞ。古い家ですけど」
勧められ、円はなめらかに磨かれた無垢材らしい扉の玄関をくぐる。
確かに古そうな家だが、温かみのある色合いの灯りに照らされ、飴色に鈍く輝く板張りの廊下や階段の風情は、『時代がついている』という表現がぴったりくる。
大正モダンな洋館が基本になっている、骨董品のような家だ。
「素敵なお家ですね」
お世辞でなく円はそう言う。
これは、お金を出せば即買えるというタイプの『素敵なお家』ではない。
古い時代に吟味した建材で建てた洋館を、大切に大切に手入れして住み続けたことによって出来た、家と住人の努力によって練り上げられた『素敵なお家』だ。
「はは、ありがとうございます。手入れの手間が結構ありますから面倒ではありますけどね、私はこの家、気に入ってるんです」
少し照れくさそうに結木氏は言った。
リビングへ導かれる。
いわゆるリビングダイニングであり、その向こう側はキッチンのようだ。
そちらから複数の女性の声が聞こえてくる。
「るりさん」
結木氏がキッチンに声をかける。無意識のうちに優しさやいたわりが込められた、あたたかい声だ。
「お客様、着きはったで」
キッチンから出てきたのは、ハッとするような美しい人だった。
と言っても、彼女はおしゃれをしていたのではない。
全体的に日焼けした化粧っ気のない肌、肩を過ぎた髪をシンプルなバレッタで無造作にひとつにまとめただけ。
身に着けているのも、やや厚手の綿のロンTに洗いざらしのデニムパンツ、その上に黒のシンプルなエプロンという、いかにも普段着の『家庭の主婦』である。
が、美しい人だった。
クラシカルなビスクドールを思わせるような、はっきりとしていながら品の良い目鼻立ちであるということも大きいだろうが、それだけではない。
大人しやかでありながらも、溌溂とした生気を発散させてほほ笑む彼女には、老若男女問わず魅了する引力がある。
「ようこそお越しくださいました。お初にお目にかかります、結木の家内です。大したおもてなしも出来ませんけど、今日はたくさん召し上がって下さいね」
丁寧ではあっても過剰ではない挨拶に、円はホッとする。
「はじめまして。九条と申します。今日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
「本来やったら、お近づきのしるしに一杯と言いたいところですけど」
いつの間にか結木氏は奥さんとおそろいの黒いエプロンを身に着けていて、湯呑みや急須をのせた小さな丸盆を手に現れた。
「九条さん、まだ完全にお怪我は治ってはれへんという話ですし。今日ところはお茶だけで」
勧められるままに席へ着き、円はお茶をいただく。
さわやかで美味しい緑茶だった。
キッチンの方で料理の最後の仕上げをしているらしい声が聞こえてくる。
漏れ聞こえてくる話から、結木氏が買い出しと下ごしらえ、仕上げは奥さんと娘さんで行った様子だ。
「ソウシは?」
思い出したようにそう言う結木氏の声が聞こえてきた。
「まだ帰ってないの。ちょっと……遅いよね」
心配そうな奥さんの声を聞いているうちに、円もふと思い出した。
(……あれ? そう言えばキョウコさん、いないのかな?)
夕飯時に会おうと言っていたのに。
結木邸の中に、彼女の気配はない。
「結木蒼司君」
先程の彼女がいた辺りから、なんとなく偉そうな少女の声がした。蒼司は飛び上がる。
「……やれやれ。間に合わなかったか」
やや悔しそうにそう言う相手の顔を、蒼司はきちんと見て……再び硬直した。
(この子……ににに、人間やない!)
宵闇に白く浮かび上がる顔は、蒼司よりも幾つかは年下らしい少女のもの。
恐ろしいまでに目鼻立ちの整った、美少女ではある。
しかしそれはよく出来た表皮にすぎない。彼女の中身は……
(ありえへん! 真っ白やんか!)
祖神から『月の若子』と呼ばれる程度には、蒼司は月の一族の能力が高い。
現状、母に次ぐ能力者はうぬぼれではなく蒼司。
しかしその蒼司ですら、この人形めいて美しい少女の中が見えない。
「驚かせて悪いな。私は君のお父上やその眷属から、イザナミの名で呼ばれている者だ。話くらいは君も聞いているだろう?」
圧迫感のある大きな双眸が、蒼司の瞳を射抜く。反射的に彼はうなずく。
「怨霊一歩手前というか、もうほぼ怨霊だな、それに君は、上手いこと使われてしまったらしい。……ああ。恥じることも悔やむこともない、相手が悪かっただけだ。むしろ私が後手に回ってしまって、君に迷惑をかけてしまった」
「……は?」
首を傾げる蒼司へ、少女は淡く苦笑した。
「だが、君をこのまま帰宅させるのはリスクがありすぎる。憑かれてはいないが、印をつけられたからな」
「印?」
莫迦のように相手の言葉を繰り返す蒼司の腕を、彼女は無遠慮につかんでこう言った。
「【転移】」
……と。
刹那、蒼司は激しい眩暈に襲われ、よろめいて両膝を折った。




