3 追憶④
やにわに拍手が響いてきて、さくやはハッとして振り返る。
いつの間にかそこには、黒いワンピースの人形じみた美少女がいた。
ナンフウが突然姿勢を正し、深く頭を下げたので、さくやは本気で驚く。
『小波の木霊一、傍若無人』とも囁かれている和棕櫚のナンフウが、無言で深々と頭を下げる姿など、さくやは初めて見た。
(もっとも付き合いの長いさくやから見ると、ナンフウは傍若無人というより虚礼が死ぬほど嫌い、な性分なだけだと理解している)
「頭を上げてくれ、和棕櫚君。せっかくの男前の顔が見えないではないか」
少女――イザナミノミコトの声に、ナンフウは、困ったように眉をしかめながら顔を上げ、言う。
「お初にお目にかかります。この地に長く住まう和棕櫚、ナンフウと呼ばれている者です。以後、よしなに」
簡単ではあるが、それなりに礼に適った挨拶をする彼へ、
「イザナミの名で呼ばれている者だ。だが、別に他の名で呼ばれても余程ヘンな名でなければ返事をする。君は、私を何と呼ぶ?」
と、彼女は答えた。
ひどく困った顔で、ナンフウは絶句していた。顔色が悪い。
「……イザナミノミコト、と呼ばせてください」
蚊の鳴くような声でそう言うナンフウへ、彼女はかすかに口角を上げた。
「承知した。以後よろしく」
こちらこそ、と、もぞもぞと言って頭を下げる彼へうなずき、美しくも恐ろしい少女は踵を返した。
「……恐ろしい、ねーちゃんやな」
ややあって、ナンフウはひとりごちた。
「オレは今日。蛇ににらまれた蛙の気持ちが、嫌っちゅう程わかったで。アレは、霊的な攻撃だけやなく、多少の物理攻撃やったら指一本でいなすで、多分。たとえ10tの鉄骨が頭の上へ落っこってきても、メンドクサイなあって、片手で払いそうや」
「まさか」
やや引きつりながらもさくやが、冗談にしようと笑ったが。
彼女の師匠は真顔を崩さなかった。
「いや、『まさか』やないな。天津神ってのはマジで怖い。もう一人の方も、彼女のせいぜい半分の実力やったとしても、怖いぞ。最低でも、本気で怒ったお嬢のとーちゃんくらいは、怖いはずや」
普段は穏やかで、むしろどこかとぼけた雰囲気の父だが。
本気で怒れば怖いことくらい、さくやもよく知っている。
その様を、『雷雲をまとった龍』とたとえたのは大楠だ。
普段は大楠の方がよほど『怖そう』だが、『雷雲をまとった龍』を前にすれば縮み上がるしかないと、苦笑い含みに彼は言っていた。
(それは……怖い、な)
だが納得できる。
彼は、不羈の獣、という本性を隠し持っている。
父の本性に近い。
不意に、夢の景色がまざまざと脳裏に浮かんだが、彼女は首を振る。
彼が本当にさくやの運命の人かどうか、正直今のところはわからない。
ひとめ見ただけでわかるようなものではないのかもしれないし、この夢自体が本当に『月の一族の夢』かどうかも不明だ。
ただ、彼――不羈の獣たるユニコーンは今、手負いなのだ。
夢の中の話でなく、現実に。
常より怒りやすくなっていても不思議ではない。
「まあ、せいぜい怒らせんように気ィ付けや。……坊が心配やな」
「それは……同感、です」
『坊』――つまり弟の蒼司のことだ。
大人しめではあるがただいま反抗期真っ盛り、おまけに自分の能力に、実際の実力以上の自信を持ってもいる。
(イザナミノミコトへ喧嘩ふっかけるほど、あの子も馬鹿やないやろうけど……)
蒼司とて、彼女が醸し出すあの圧倒的なモノを感じ取れない訳ないだろうし、そうでなくても彼女の見た目は、自分より年下の、とびきり綺麗な女の子だ。
さすがに遠慮するだろう。
だが、同性である九条に対しては……、やらかしかねない。
(ああ、もう……)
頼むから静養に来た人へちょっかいをかけないでくれと、さくやは祈るように思った。




