Bー1 刺される④
次に円が気付いたのは、病棟のベッドの上だった。
自分の状況がわからず軽く混乱したが、身動ぎした瞬間に鋭い痛みが左下腹部から走って、いろいろなことを一瞬で思い出した。
少し落ち着いて、周りを見回す。
個室のようだが、集中治療室や回復室ではなかったので、意外と軽症だったのかと思う。
「……目が覚めたか? 九条君」
どことなく幼さの残る、そのくせ冷ややかでやや尊大な声音。
こんな声の持ち主など、思い当たるのはひとりしかいない。
「キョウコさん……」
枕許にいたのは。
胸もとや袖、裾に渋い赤の差し色が入った、襟口に黒のレースを控えめにあしらったクラシカルなデザインの、黒のワンピースを纏った12歳ほどの少女。
大人しめのゴスロリ的なニュアンスの服装がよく似合っている、人形めいているほど整った容姿の素晴らしい美少女だ。
彼女は【eraser】の【管理者】である。
円が彼女を呼ぶ場合、『キョウコさん』という仮の名で呼んでいる。
【eraser】毎に、彼女の呼び名は色々とあるのだそうだ。
現在のところは少女の姿をしているが、それはあくまでも彼女の『仮の姿』であり、正直、得体の知れない存在ともいえる。
ただ、少なくともこの星に生きる人類から見れば、上位存在なのは確かだ。
背中まで垂らしている艶めいたまっすぐな黒髪を揺らし、彼女――キョウコさん――は一歩、近付いてくる。
「災難だったな」
そっけないながらも真摯ないたわりのある、彼女独特の口調。
円はふっと笑む。
「そうですね。ほとんど面識のない人に一方的に好かれたあげく、突然刺されるとか……そんなドラマみたいなこと、ホントに起こるんですねえ」
「ずいぶん他人事じみた言い方しているが。君、かなり危なかったんだぞ」
少し怒ったような感じでキョウコさんは言う。意外なことを聞き、円は目を見開く。
「出血がひどくて輸血したし、なかなか意識も戻らなくて。そばでこっそり治療の様子を観ていた私も焦ったんだぞ。医療技術だけでなんとかなるかと、ギリギリまで待ったが……私の判断で、昨日、希釈した『エリクサー』を君に飲ませた」
『エリクサー』という仮の名で呼んでいるのは、彼ら【管理者】が扱っている万能薬。
人間の大抵の怪我や病は、この薬を適切に投与すれば完治する。
ただ、それなりに深刻な副作用もあるので、滅多に投与することはない。
「ええ? それって結構……ヤバくないですか?」
「ヤバい」
彼女は簡単にそう言い切ると、ティースプーンほどの小さな銀色のスプーンを差し出した。
「最初に与えたものより更に希釈したエリクサーを、ゼリー状にしたものだ。口を開けなさい」
円は大人しく口を開け、スプーンの上に乗った透明のゼリーを飲みこむ。
口に入った瞬間、ゼリーは舌の上で溶け、爽やかな風味が広がった。
途端に、身体中にこもった熱がすうっ…と引いた。
「傷のすべてはエリクサーで治さない、今回は非常時とまでは言えないからな。後は自力で治しなさい」
うなずく円へ、『キョウコさん』は瞬間的にひどく優しげな笑みを浮かべたが、すぐ真顔になった。
「頭がすっきりしただろうから、少し問う。正直に答えてくれ」
彼女の口調になんとなく恐ろしいものを感じ、思わず円は身構える。
「九条君。君は、死にたいのか?」
思いもかけない問いに、円はポカンとする。
「は? え? いいえ! せっせと苦学してようやく医者になれて、俺、まだ二年ですよ? 奨学金も返さないといけませんし、専門医の資格も取りたいし、人生これからです、死んでる場合じゃありません」
「じゃあ何故、むざむざ彼女に刺された?」
「いや避けられませんよ、アレ。そりゃもう動作が素早かったですし、本気で無理心中するつもりだからか、ためらいも忖度もなく彼女、俺を真っ直ぐ刺してきましたし。あっけに取られたって感じで……」
キョウコさんは冷たい目をして鼻を鳴らす。
「その説明で、半分は納得できるが残りの半分は納得できないな。そもそも刺される前に、大声で助けを呼ぶなりなんなり、出来たんじゃないのか? あそこは無人の荒野じゃない、5~6mも移動すれば誰かしらいたであろう建物の中だ。たとえ相手が【dark】が深く巣食っている人間で、【eraser】の君としては放っておけなかったのだとしても。まずは己れの身の安全を確保してから、次の手を考えるものじゃないか?」
そう言われるとそうかもしれないと思うが、あの時の円に、助けを呼ぶとか逃げるとかの選択肢は無かった。
何故無かったのかはわからないが、無いものは無いとしか言いようがなかった。
困惑したような顔で絶句している彼へ、キョウコさんはかすかに口角を上げた。
どことなく、痛ましさをこらえているような笑みであった。
「……そうか。死にたい訳ではないということが確認できたから、今回はまあ、良しとしよう」
そう言うと彼女は、くるりと踵を返す。
「また来る。ゆっくりとやすみなさい」
いたわりが底に沈んだ、そっけない彼女の声。
【eraser】になったばかりの頃、さりげなく気遣って、ちょいちょい声をかけてくれた彼女のことを思い出す。
懐かしい話だ。
そんなことを思っているうちに円は、いつしか、トロトロと眠っていた。




