終章~ただいま④
そんなことをナンフウと話していると、玄関の方で物音がした。
「お嬢、帰ってきたみたいやな。ほんならオレは消えまっさ」
ニヤッとした次の瞬間、ナンフウは消えた。
消えたというより、姿を隠したというべきだろうが。
彼の本体である市の天然記念物『大和棕櫚』は、庭に鎮座?しているのだから。
廊下を歩く軽い足音。
通学用のリュックを肩にかついだまま、さくやが近付いてくる。
今日のさくやは、黒の膝丈ジャンパースカート(軽く裾を絞ったバルーンスカート)の上に、深みのある橙色のニットカーディガンを合わせていた。
女性のファッションに疎い自覚があるし、高校時代は制服の学校だった円だ、あまり偉そうなことは言えないが。
今日の彼女のファッションは、デザインに適度な遊びのある、でも通学服を逸脱していないキチンとした感じだと思う。
何より彼女に似合っている。
「おかえりなさい、さくやさん」
知らず知らず笑顔になりながら、円は彼女へ声をかける。彼女は、ちょっと困ったような感じに頬をゆるめ、こたえた。
「……ただいま。九条さん」
今日は旧野崎邸までタクシーを呼び、ターミナル駅まで行く。
そこからいくつか列車を乗り換え、円は実家のある町へ帰る手筈だ。
初めてこちらへ来た時は【home】を通じての移動だったので、散歩のような気軽さで行き来した。
キョウコさんは、今回の帰省までなら【home】を使ってもいいと言ってくれていたが、あえて公共交通機関で移動することにした。
円は確かに【eraser】だし、この(いわくつきの)『休暇』の間、一度大掛かりな浄化の仕事を頼みたいとも、彼女から言われている。
そんな依頼はここ十年ほどなかった。
円たちが【Darkness】を完全浄化して以来、少し風通しが良くなった【世界】に再び、余分な【dark】が澱みつつあるのかもしれない。
そちらの仕事のために【home】を利用するならまだしも、私用で使うのは控えるべきだと円は思ったのだ。
円はもう、怨霊クラスの【dark】に魅入られているのでも、そのせいで怪我をしている訳でもない。
自分の足で歩き、自分で公共交通機関を使いこなし、帰る。
そういうことを忘れると、人間としての感覚がおかしくなりそうな危惧もある。
今後円は、現実の社会にある現実の病院という組織で、医療現場という現実の中、現実にまみれて医師の仕事をする。
【eraser】であろうが、思い人が古代の息吹濃い土地に存在する奇跡の泉たる女神の生まれ変わりであろうが、円の軸足はそちらにあるのだ。
そして泉の精霊の生まれ変わりである彼女も、今生は人間の娘だということも忘れてはならない……。
新幹線の車窓越しにぼんやり景色を眺めながら、円はそんなことを、考えるともなく考える。
ようやく実家の最寄り駅に着いた。
半日仕事だ。
あらかじめわかっていたが、円が生まれ育った町と小波は、やはり遠い。
一瞬、物理の距離が心の距離になりそうな、心許ない感覚に陥ったが、頭を振って打ち消す。
物理の距離が近くても、心の距離が近いとは限らない。
むしろ、近しい人との心の距離の遠さに感じるやりきれなさはどうだ。
思春期から青年期の円は、いつもそんな寂しさを心の隅に抱えていたではないか。
最寄り駅に着いたことを、とりあえず円は、母のスマホへメールする。
実家の玄関の鍵を開ける。
いうほど長く不在だった訳でもないのに、なんとなく十年ぶりに帰ってきたような懐かしさ。
円は戸惑う。
奥からパタパタと小走りでやってくる足音。
母だ。
一瞥して、円はぎょっとした。
母は……こんなに老けていただろうか?
この件で彼女に掛けた心労の重さを改めて感じ、胸が痛む。
「……マドくんッ」
思わずのように彼女が、幼い頃からの呼び名で円を呼んだ。ハッとした後、少し決まり悪そうに彼女は笑い、姿勢を正した。
「おかえり。疲れたでしょ?」
円は軽くうなずき、笑む。
「うん、そうだね。ただいま、母さん」
【了】




