終章~ただいま②
しばらくリビングで結木氏と話していると、蒼司が学校から戻ってきた。
円に気付くと彼は、ペコッと頭を下げた後、申し訳程度に笑みを浮かべた。
「こんにちは」
「こんにちは、おかえりなさい蒼司くん。おじゃましてます」
円がそう言うと、蒼司は、
「どうも。ちょっと……一時間ほど。野崎の庭でレッスンやってくるから」
と、軽く父親へ視線を当てつつも、どちらにともなく彼は言う。
「おう、わかった。気ィつけてな。晩飯は九条さんと一緒やから、あんまり遅ならんようにな」
結木氏が答えると、蒼司はうべなう。
「うん、わかってる。あ、失礼します、九条さん」
もう一度ペコッと頭を下げると、彼は二階の自室へ向かう。
楽器や教本、楽譜なんかを取りにいったのだろう。
相変わらず愛想がいいとは言えないけれど、彼も少し雰囲気が変わったように円は思っている。
いかにも思春期の少年らしい、無意味に尖っていた雰囲気が丸くなったような印象を受ける。
彼もあの経験で、何か感じるものがあったのだろう。
蒼司はあの時、一番長く魂が現世へ帰ってこなかった。
ヒトコトヌシが『コーダⅡ』と名付けたあの不思議な経験の内容は、その場にいた者すべてが共有している。
だから彼がいずれ帰ってくることはわかっていたが、戦場エリアを解いた後も彼は、前後不覚の状態でなんと一週間、眠っていた。
怨霊と長く共にいた影響だろう。
キョウコさんが数回、希釈したエリクサーを彼に投与し、身体が弱らないようにしていたが……目を覚ますまで皆、特に両親である結木氏と夫人は気が気ではなかった。
心配は心配やけど、いつか起きてくることはわかってますから、と結木氏は笑顔を作って言っていたが、その笑顔はこわばっていた。
あの一週間で二人共、かなりやつれた。
円は、医者であり【eraser】であるにもかかわらず、彼の回復を待つ以外何も出来ない自分が、非常にもどかしかった。
長い長い一週間が経ち、蒼司は目を覚ました。
完全に回復するまで更に一週間ばかりかかったが、蒼司は今、元気に日常生活を送っている。
美魔女風になったイザナミノミコトへ、時折、ちょっと寂しそうな目を向けることはあったが、本当の意味で彼女の『剣』になることはあきらめた様子だ。
「『コーダⅡ』で、あの方がどんだけ苦労して、どんだけ一生懸命ヴァイオリン……つまり天津神のお仕事ってことやけど、に向かってるんか、ちょっとはわかりましたし。オレみたいな半端なガキ、あの方の奴隷になる資格もあれへんなァって心の底から思いました」
この前の土曜日、野崎の庭でのレッスンの後に、縁側でお茶でも飲みなよと円は彼を誘った。
その時に彼は、何かの流れで円にそう言った。
「あの方が必死にヴァイオリンに食らいつく姿勢を胸に、オレもオレなりにフルートに食らいついていこう、少なくとも今の自分に出来るんはそれくらいかなァって。……それから後のことは、また後で考えます」
縁側に座ってお茶を飲み、遠くを見ながら彼は言う。
少し大人びた、寂しそうな彼の瞳の色は、円の胸を甘苦く締め付ける。
円自身が初恋の人を見送った時の記憶が、思いがけない鮮やかさでよみがえった。
「……それはそれとして」
蒼司はふと、少年とも思えない人の悪そうな笑みを浮かべた。
「九条さん、ウチの姉とうまいこといってるんですか?」
お茶を吹きそうになった。
『うまいこといってる』かどうかは、何とも言えない。
そもそも現実問題として彼女は高校生であり、円はアラサーのおっさんだ。
オトモダチから始めるしかない(オトモダチであっても犯罪臭が漂いそうだが)し、少なくとも彼女が成人年齢に達するまでは『オトモダチ』でいなくてはなるまい。
今までろくに小波から出られなかった彼女は、とにかく色々とチャレンジしてみたい、と言っている。
彼女を応援するという形(というか、大義名分?)で、色々と出かけてはいる。
大阪で有名なアミューズメントパークや水族館へ行ったり、小さな管弦楽団の演奏会へも行った。
メールのやり取りもしている。
と言っても、そこに糖度はほとんどない。
本当に『オトモダチ』の付き合いであるし、またそうでなくてはならない。
「前世からの運命の恋人かも知らんけど。ボケっとしてたら九条さん、横からかっさらいに来る男に負けて、ねーちゃんに捨てられるで。ナンか最近、ねーちゃん、学校で人気、出てきてるみたいやし」
彼女が女神の自覚を持って以来、どこかオドオドしていた雰囲気が消えたせいか、人目を引く存在感をかもすようになってきたのは、円も知っている。
「……捨てられないよう、頑張ります」
お茶を飲みつつ神妙にそう言う円へ、多少は留飲を下げたのか、蒼司はなんとなく嬉しそうにニヤッとしてお茶を飲み干した。




