終章~ただいま①
あれから約一ヶ月後。
九条円は今日、長く借りていた旧野崎邸の宿舎を出て、帰宅する。
まずは実家へ戻り、両親に会うつもりだ。
宿舎の掃除は昨日のうちの済ませた。
結木氏への挨拶も。
「今年いっぱい療養なさる予定やと伺ってますけど、そちらは変わらないんですか?」
結木氏の問いに、円はうなずく。
昨日の午後三時半過ぎだ。
講義が午前中だけだったらしい結木氏から、その時間帯には自宅にいるからとあらかじめ言われていた。
良かったら夕飯もご一緒しましょうとも言われている。
「ええ、そちらは特に変更ありません。斉木さんが目を覚まし、自分の罪や妄想を認める証言をしましたから、ある種の冤罪っていうのか、九条円へのいわれのない噂は鎮まる傾向ですけどね。それでも面白おかしい噂話ってのは、勝手に広まりますから。実は別の病院への異動も、それとなく勧められてます」
「それは……ナンギですねぇ」
結木氏はため息を吐き、お茶を飲む。
「確かに、九条さんに罪はないっちゅうてもスキャンダルに近い出来事やと、世間は思うのかもしれません。……せやけど。アチラの病院、実はお医者さんが余ってるとか、そんな事情があるんでしょうか?」
眉を寄せる結木氏へ、円は苦笑する。
「いやあ、どっちかといえば不足してると思いますよ、それなりに無理矢理、何とかしてますけど。そもそも私がいない間の穴を埋める、非常勤の医師もいます。場合によればその人を正規で雇えばいいってところじゃないかと」
「うーん、ナンか、素人が思うよりお医者の世界もドライなんですね。まあ……それが現実でしょうけど」
医療現場は、いわば戦場のようなもの。
誰かが抜けた穴を残った人員でカバーするとしても、数ヶ月となると無理が出てくるのもわかる。
療養のため休暇を取れと言われた時から、半分は覚悟していた事態ではある。
「病院の方から斡旋の話もあるでしょうけど、個人的に次の職場を探してみてもいいかなと。まあ、キャリアの継続を考えれば、病院からの斡旋が第一候補になると思います」
実は今回、こちらでボランティア小児科医をやった縁で、市の総合医療センターで勤めないかという話もきている。
条件等によればこちらで勤めるのもアリかと、円としてはちょっと思ってもいた。
「イザナミノミコトは……助けてくれはれへんのですか?」
なんとなく声を潜めて結木氏は問うのに、円は大きな声で笑って首を振る。
「ああ、それはないですね。各々の【eraser】が現実で生きることについて、あのお方は一切、手を出しませんから。さすがに、とことん食い詰めてホームレスになって死にかけてるとかなら、しぶしぶ面倒みてくれるかもしれませんが。彼女は基本、怨霊がらみの案件ならチートを使ってでもサポートしてくれますが、それ以外のことでのサポートはまずありえません。あの方がリアル方面でも助けてくれるのなら、そもそも医学部へ一浪して入ったり奨学金借りて大学に通ったり、してませんよ」
それを聞き、なんとなくホッとしたように彼が笑ったのが、円は印象に残っている。
今回の出来事でゴスロリ風の美少女から美魔女風の熟女へ、アバターの姿が変わってしまった彼女だが。
円の本音としては、このくらい年長者の見た目である方が落ち着く。
国生みにして黄泉の女神がローティーンの美少女なのは、ギャップが大きすぎて円は正直、違和感があった。
もっとも本人は、ここまで老けたくなかったとかなんとかぼやいているが。
アバターがここまで一気に老けてしまったのは、数百年から千年分ほどのエネルギーを一気に使ったせい、なのだそうだ。
あの特殊な戦場エリアを維持するのは、上位存在のサポートがあってもすさまじいエネルギーがいるのだ、と。
(ヒトコトヌシを自称していた【秩序】は一応、彼女のサポート要員だったらしい。本来は人間たちの前に姿を現す予定はなかったそうだが)
「しかし、国津神の領域にまたがる戦場エリアでなければ、今回、君たちの能力を十全に発揮してもらいつつ、こちらも最大限、君たちを守ることが出来ないとわかっていたからな。アバターが老いてしまうのは必要経費だと思っている」
だがついこの間(といっても十年以上前。彼女の時間の感覚は、当然人間とは違う)アバターを新しくしたばかりなのになあ、と、やはり彼女はぶつぶつ言っていた。
なんとなく、この人?可愛いかもしれないと円が密かに思ったのは、内緒だ。
「それでも、君とさくや君が所謂『神隠し』の状態になったのは焦った。あの方……ヒトコトヌシノオオカミが君たちを管理しているのはわかっていたから、私はある程度は落ち着いていたが。他の皆は突然のことに、パニックになったんだよ」
あの時。
ヒトコトヌシが指揮棒を振りかざした刹那、円とさくやは忽然と姿を消したのだそうだ。
当然その場は騒然としたが、ヒトコトヌシが例の人を食った笑みを浮かべ、心配いらないと言ったので、皆なんとか(無理矢理)納得した。
彼は指揮棒を、ちょいちょい、と振り、その場にいた大人と木霊に次々と指示を出したのだそうだ。
「……コーダⅠとコーダⅡ、ですね」
そろっと円が言うと、彼女はその見た目年齢に相応しい、ゆったりとした表情で笑った。
「ああ。だが事態の収拾をつける必要は、その場にいる誰もが感じていたし……無理矢理やらされた部分はあったが、彼らも彼らなりに自分の心を表現できたことについては、すっきりした様子だったよ」
あの方なりの思いやりだったみたいだな、ちょっと理解しにくいやり方だけど。
そう言うと彼女は、一切の質問を封じる、彼女独特のあの圧のある笑みを浮かべた。




