18 コーダⅢ④
「迎えに来たんです、さくやさん」
やや前のめりになって言う円へ、さくやは一歩、後退る。
「迎えに……ですか? 私を?」
あやふやにそう言い、さくやは困ったように少し笑った。
夢の中でもよく見た、彼女の少し困ったような笑み。円は懐かしさに胸が熱くなる。
が、次の言葉で円は凍りついた。
「ですから……なんで? 無意味ですよ」
円が絶句してしまったので、さくやは更に困ったように眉を寄せた。
「あのう。九条さんが私を迎えに来てくださったのはわかりました。つまり私を『黄泉がえり』させる為でしょ? せやけど私は、結木さくやはもう、現世で生きられへんのです」
無残なまでに断定的に、さくやは言った。
「……なんていうのかなあ。あ、そうやコップの水。コップが身体で、コップに入ってる水がその人の寿命っていうのか生命力っていうのか、そういうもんやって仮定しますよ? たとえコップが新しィて綺麗やったとしても、中の水がなくなったら現世では生きてられへん、そういうもんっていう感じなんです、あんまり上手いたとえやないかもですけど。あ、コップが形を保ってて、中に水が残ってる場合でも、不幸が重なってヒトって死んでしまうことありますけど、その場合は呼び戻しが可能です。でも私、まだ高1で16歳やけど、中に入ってる水がなくなったんで、これ以上は現世で生きられへんのです」
「は? あ? え? で、でも。そんな……でも。ひ、ヒトコトヌシ。ヒトコトヌシは……あ、それって、そもそも俺のせいですよね? 俺が……」
混乱しながらも円が言いかけると、さくやはあわてて大きく手を振った。
「ああいえ。九条さんのせいと違います。私がやりとうてやったことですから。あの、正直言うと無我夢中でしたから、これで私の中の『水』がなくなるとは思てませんでした。でも、たとえ何回あの瞬間やり直したとしても、私はきっと山吹色の肩巾を九条さんへぶっつけて、引っ張ったと思います。あのまんま、怨霊さんの執念に取り込まれるみたいに九条さんが死ぬのん、絶対に嫌ですから」
彼女は再び困ったように笑う。
「要するに……私のわがままなんです。せやから気にしやんといて下さい……って無理やなァ、私が九条さんでも気にするワって思いますけど」
それでも何故かさくやは吹っ切れたように笑い、背筋を伸ばす。
「でも、それはそれでしゃーないかなって。多分、オオモトヒメの頃から引っかかってたところが解消された気ィしてるからやないかと思います、私が比較的吹っ切れてるのん。死ぬの残念なんは確かですよ、だってまだ16年しか生きてへんねんし。……家族も、泣くやろうし」
そこで初めて、ふっと彼女は顔を曇らせた。
「でも不思議なくらい、気持ちはスッキリしてて……」
「どういう、ことです?」
円は、自分の死に対して妙にさばさばしているさくやに、腹が立ってきたと同時に不審にもなってきた。
何故彼女はここまで達観している……あるいは、あきらめているというか投げやりなのだろうか?
「あー、その。私の魂ってヤツ、六割くらいがオオモトヒメやないかと思うんですけど」
さくやはきまり悪そうに目をそらし、つぶやくように言った。
「そのせいかオオモトヒメの感覚とか感情が、結構残ってて」
さくやは軽く赤面していた。
「……オオモトヒメは精霊としての寿命が尽きるその瞬間まで。村人から『龍神使いの三太』なんて呼ばれてた、生涯唯一の恋人のことを思っていたんです。彼には、なんてゆーのか、自分を大事にせーへん癖があって。自分のことはいつも二の次三の次って人やったんです、それだけ優しい人ではあったんですけど」
さくやはふっと息を吐いた。伏せがちの目の色は暗い。
「でも、優しいだけやなくて。自分の値打ちを下に下に見る癖のある人でもあったんです。そもそも自分には生きてる値打ちないから、より値打ちのある他人を大事にする、みたいな。オオモトヒメはそこがいつも気になってたんですけど、いくら言うて聞かせても三太はピンとこんままで。彼女、三太と死に別れた後もずっと悔やんでいたんです。もっともっと三太を大事にしたら良かった、三太に、あなたにはすごい値打ちがありますよって、言葉にも態度にも出してわかってもらうように頑張れば良かったって」
彼女は不意に目を上げ、優しくも真っ直ぐな瞳で円を見た。
「九条さんは、三太の欠片を今までオオモトヒメが出会った誰よりもたくさん持ってる……ってゆーても魂の四割強ってところですから、過半数は天津神の器の基になる神気から成ってはるし、あんまり三太の記憶はないでしょうけど。自分より他人の感情とかを優先する、業みたいなんは持ってはりますよね? そこが九条さんのいいところで、お医者さんにはぴったりの性格かもしれません。でも、いいところは悪いところでもあって、たとえば、一緒に死んでくれって迫ってくる怨霊さんに流されて押し切られかねない、半分投げやりなっていうのか、自分を粗末にしてしまう癖もあるんやないかと」
違う、と言いたかったが言えなかった。
円には確かに、そういう部分が無きにしも非ず、だ。
さくやはかすかに口角を上げた。
「でも今回、確かに無理矢理に近い形で私が、いったん引き止めはしましたけど。九条さんは、ご自分の意思と判断で怨霊さん……斉木千佳さんの誘いを断ち切りはった。ああ良かった、九条さんは三太の過ちを受け継がんと今生を生きはる、そう思ったら、すごいホッとしたんです。前世からのわだかまりが溶けた、私が生まれてきた意味があった、みたいな」
いつの間にかさくやは、あの古代の女官の礼装に似た、オオモトヒメノミコトの姿になっていた。
額に描かれた朱色の四弁の花、えくぼのような口許の朱の点が、少し寂しそうにゆがむ。
「だから。無理を承知でやっぱり言います。気にしやんといて下さいって。結木さくやは決して、無意味に死んだんやないって信じて……ウチの家族にも、そう伝えて下さい」
さようなら。
踵を返す彼女。
一拍遅れながらもハッと我に返り、円は彼女の肩をつかむ。
否、つかもうとした。
だが手ごたえはなく、虚しく空をつかむ結果になった。
あわてて次に、彼は、風になびく彼女の山吹色の肩巾の端をつかむ。
そちらはどうにかつかむことが出来たが、早足で丘を降りる彼女を引き止めることは何故か出来ない。
肩巾は糸のように長く長く細く細く伸び、かろうじて彼女と円を繋いでいるが、今にも切れそうに見えた。
「それが君の『終結部』なの? 哀愁に満ちてはいるが存外つまらない、お涙頂戴的な予定調和だねえ」
円の後ろで、鼻を鳴らすような調子でそう言うモノがいる。
振り返るまでもない、ヒトコトヌシだ。
「黄泉へ落ちた女を追いかけたものの、結局は連れ戻せない。神話の時代から変わらない、情けない男のテンプレートだね。オルフェウスもイザナギもそうだったからって、別に九条円もその例に倣わなくてもよさそうなものだが」
「……うるさい」
「まあ、そこまでの執着しかなかったのだから、そんなところか。そろそろ舞台の幕を下ろす準備を……」
「うるさい、うるさい、うるさい! 黙れクソガキ!」
叫んだ瞬間、円はユニコーンの姿になっていた。
手にあった、山吹色の肩巾だったものは、額の角に複雑に絡みついていた。
「追いかける!」
言挙げするように言うと、彼は、糸のように細い肩巾を手繰るようにして駆け出した。
「……クソガキ、か。言ってくれるじゃないか」
丘の上に立ったまま、ヒトコトヌシはニヤリと会心の笑みを浮かべ、腕を組んだ。
「もう少しは楽しませてくれそうだね、さすがはイザナミの秘蔵っ子。いいメロディを奏でておくれよ、これが最後のチャンスなんだから」




