18 コーダⅢ③
ヒトコトヌシが指し示した方向へ、ユニコーンになった円は駆け出す。
真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ。
ふと気付くと、辺りは濃い蒼の世界になっていた。
上も下もない。
右も左もない。
一面の、蒼。
そして無音。
唐突にすさまじい恐怖を覚え、円は思わず、たたらを踏んで立ち止まる。
(ここ、は……)
あの紺碧の空なのだ、と、一瞬後に彼は理解する。
(……そもそも。俺は何故、彼女を連れ戻そうとしているのだろう?)
あまりにも根源的な、当然すぎて疑問を持たなかった問いが円の胸に兆す。
彼女が死ぬのは間違っている。
ヒトコトヌシの話を聞いて、円はまずそう思った。
彼女の生命力が枯れたのは、彼女の寿命だったからではない。
また、自分の命と引き換えても円を救うと望んだ訳でもない。
円が怨霊すなわち斉木千佳の呪いに絡めとられ、死にそうになっていたのを引き止める為に彼女は、自らの生命力をそれと知らずに使ってしまった、だけだ。
確かに彼女は真剣に、『九条円は自らの意思で、自らの生死を決めてほしい』と望んだのかもしれない。
だが、その望みのせいで自分の命が犠牲になるとは夢にも思わなかった筈だ。
(俺だって。知り合いが死にそうになっているのなら、阻止したいと動く)
その人が溺れているなら救助を要請し、可能なら浮き輪なりを持って自分も救助へ向かうだろう。
その人が崖から滑落しそうなら腕なり命綱なりをつかみ、滑落を阻止するだろう。
彼女が俺の為に動いたのは、つまりはそういうことだ。
その結果、かえって自分の方が溺れたり滑落したりする場合もあるかもしれない。
あるかもしれないが、それは単純に不幸な事故だろう。
救おうとした人に罪はない。
(半分無意識だったにせよ。そうまでして自分を救おうと動いてくれた人を、見捨てるなんて出来ないじゃないか。助ける手立てがあるのなら、救うべく動く!)
だから彼女を呼び戻すことに、疑問を持つ必要はない。
ふと、でももう間に合わないかもしれない、と一瞬思うが、彼は強く首を振る。
(怯むな! 間に合う! 間に合わせる!)
ヒトコトヌシは、間に合わないとは決して言わなかった。
彼らは得体の知れない存在だが、不思議なくらい嘘はつかない。
デリカシーに欠けるところはあるが、だからこそ……というのも変だが、嘘はつかない。
嘘をつくなどという、無駄なことはしない。
その辺りは今までの経験上、信頼できる。
自分を叱咤し、彼は再び駆け始めた。
駆ける、駆ける、駆ける……。
紺碧は緩やかに濃度を増す。
彼女はいない。
否、彼女もいない。
ここには誰もいない。
足音すら響かない暗い世界に、円だけが闇雲に駆けている。
自分の息遣いと鼓動だけは感じられ、そのお蔭でかろうじて、自分はまだ生きているのだと信じられた。
「……さくやさん!」
円は思わず虚空へ向かって彼女の名を呼んだ。
無音の沈黙が耳に痛い。耐えられない。
「さくやさーん! 死んじゃだめだ、戻るんだー!」
無駄だと知りながら彼は叫ぶ。
「君が死ぬ必要なんか、まったくないじゃないか!」
なんだが涙がにじんでくる。このまま永遠に会えないかもしれないと思うと、急に苦しくなってきた。
「さくやさーん!」
不意に目の前に、あの初夏を思わせる新緑の丘が見えた。
円は魅かれるようにそちらへ向かった。
若木がすくっと立っている、柔らかな草に覆われた新緑の丘。
そこに立ち、円は茫然とふもとを見下ろしていた。
額に角はあるが、ヒトの姿に戻っていた。
(この丘で俺はいつも、ユニコーンの姿で傷の痛みにうめいていた……)
斉木千佳に刺されるよりもずっと前から。
身体中の傷はおそらく、円自身も無感覚になっていた心の痛みの暗喩だろう、厨二病かとツッコミたくなるが。
思い付き、円は自分の身体を確認した。
白のオックスフォードシャツに薄青のデニムパンツ。
怨霊との闘いの時の服装だ。
時折、あたたかい風が円の髪をなぶる。
のどかすぎるほどのどかな風景。
空は麗らかに晴れ、遠くで鳴く小鳥の声も聞こえてくる……。
「……九条、さん?」
思いがけない人に会った、という声。
あわててそちらへ顔を向ける。
ジャージにフリースのパーカーの、結木さくや、だ!
「さくやさん!」
ようやく会えた、という喜びに、円は目頭が熱くなる。
「なんで、九条さん、ここにいるんですか?」
心底わからない、という表情で、さくやは首を傾げた。




