第152話 記憶の英雄
「やあ、久し振り。偽りの記憶に閉じ込められてたから……三年ぶりになるかな?」
「……レオンハート」
吸血王によって作られた絶望の世界。そこで俺は体感三年ほど過ごす破目になった。
そんな術をようやく破ったと思ったら、俺の前に立っていたのは、滅び行く王都に佇む『歴史の矛盾』レオンハート・シュバルツ。
もう一人の俺というよりは、本物のレオンハートといった方がいいだろう。謎の時間逆行が起こる前の世界に生きた、レオンハート・シュバルツなのだから。
「……何か、前より壊れてないか?」
「そりゃそうでしょ。元々不安定な世界なんだから」
前に見たとき――俺の体感時間で三年前――は、この記憶の部屋の王都はあちこち滅んではいたが世界そのものはきちんと安定していたはずだ。
が、今は空が割れ、あちこちの空間に裂け目のようなものがある。これじゃ王都崩壊の記憶ではなく世界崩壊の序章って感じだ。
「キミは知っていたかな? 僕が25歳のときに死亡したってのは」
「ああ、一応は」
本物のレオンハート……つまり、俺の中にある『ゲーム知識』として植えつけられた記憶の中にあるレオンハート・シュバルツの生涯は25年で終わる。今俺が22だから、後3年後だな。
その死因は魔王との戦い。つまり、魔王が復活して戦いになるのが今から3年後って訳だ。あくまでも、この記憶が今の歴史に通用すること前提での話だが。
「そ、つまり僕の記憶の世界は25年分で構成されていた。でもね、元々この記憶世界――聖騎士の紋章に記録される情報はキミの記憶なんだよ」
「ん?」
「つまり、本来あるはずのないものである僕の記憶は年々消えていくわけさ。本来記録されるべきキミの記憶に上書きされる形でね」
……それって、つまり……?
「本当はあと3年あるはずだったんだけどね。偽りとはいえ3年分記憶を蓄積された以上、もう僕の記憶はほとんど残っていないんだよ」
「……マジで?」
「うん、マジで。本当は後3年の間にいろいろやっておきたい事があったんだけど……ま、仕方がないね。この際起きてしまった事はすっぱり諦めて、残り少ない時間でできる限りの事はやっておこうと思ってさ」
このレオンハートは所詮記憶の存在。根幹をなすものが無くなれば消えるのが定めだろう。
だが、それにしたって……!
「何でもっと早く言わなかった! そうすれば……」
「僕の記憶を永久保存できる霊碑に移せた、かい?」
「――わかっているなら、何故……」
「霊碑に移せるのは当主の記憶を宿す大聖騎士の紋章のみだ。当主継承の儀を受けた後継者の記憶だけが霊碑に貯蔵されるんだよ。つまり、ここにいる僕の記憶はどうあがいても移動できない。大急ぎでキミが当主の座についたとしても、この聖騎士の紋章から移動できるのは君の記憶だけであり僕は無関係なのさ。魂という時間にすら縛られない自由なるものの欠片ってのは想像するよりも遥かに扱いが難しいんだよ」
俺は反論できずに言葉に詰まる。
……確かに、こいつから聞いていた継承のルールで考えればその通りだ。それを残念そうに語っている表情から考えても、それは真実なのだろう。
でも、だからって……。
「俺の記憶に押し潰されて消える……それで満足なのか?」
「満足……かどうかはわからないけど、十分すぎるくらいにラッキーだったと思ってるよ。負け犬として惨めに消えていった本来の僕からすれば、未来に希望を託して消えるなんて望んでもできないことだったんだしね」
「……お前は、元々希望を残して消えたんだろ?」
「ん? ああ……君の植え付けられた記憶でいうところの勇者様かい? 確かに僕は新米の見習いをせめてと逃がしたけど、それは悪あがきの類いさ。少なくとも、僕はあの子を勇者だから助けたって意思はなかったさ。……でも、今回は違う。勇者なんて大層なものなのかは知らないけど、僕が認めた最強の英雄の手助けになれる。そう思えば、消えることに後悔は……ま、わりとあるかなって程度に押さえられるよ」
記憶のレオンハートはどこか無理をしているような笑みを浮かべる。自分の死を覚悟しても最後まで誰かのためにって、そんな笑みを。
その笑みを見ていると、ついこんなことを考える。本当は、生き残る術があったんじゃないかって。
こいつなら、本当はなんとかなったんじゃないのか? それこそ俺の意識を排除して本来レオンハートと名乗るべき存在に戻る……その位できたんじゃないのか?
「……勘違いしないでほしいんだけど、別に僕は死ぬ訳じゃない。というか、そもそも産まれてすらいない。僕はこの歴史には存在しない、時間逆行によって生じた矛盾でしかないんだ。そもそも、生き延びようなんて考える方がおかしいんだよ」
「それは理屈だ。感情がそれで納得するわけがない」
あの偽りの世界で俺が生き延びることができた理由。それは紛れもなく感情だ。
記憶をねじ曲げられようが、過去を改竄されようが、それでも俺が俺で居続けることができたのは人としての感情があったからだ。負けるのが悔しいって感情が。消えるのは嫌だって恐怖する感情があったからだ。
それが、こいつにはないのか……?
「……あるいは、それが僕の限界なのかもね」
「え?」
「自慢じゃないけど、僕は大抵のことはできるし大抵の人より優れている。だからかはわからないけど、僕には君ほどの渇望がないんだ」
「渇望?」
「どんな不利を背負ってでも勝つ。その一念さ。僕にとって勝利とは当たり前でしかないからね」
「……それは世間一般では自慢というな」
「自慢するほどのことではないほどに当たり前のことなんだよ。……だから、勝てなかったのかもね。存在レベルで格上の魔王には」
俺にとって、敵が自分より強いのは当たり前。でも本物のレオンハートにとってはその逆だった。
俺にとって、大抵のことは努力しなきゃできないのが当たり前。でも本物のレオンハートにとってはやはり逆。
何より俺にとって、どれほど不利でも勝つまで足掻くのは前提条件だ。だが、本物のレオンハートにとってはそれほどの思いを抱く相手はいなかった。
それは、とてもつまらなくて……寂しいことだったのだろう。
「だから、気にしないでいい。僕は消えても、所詮記憶でしかない。君が覚えていてくれればなにも変わらない」
「本当に、どうしようもないのか?」
「どうすることもできないし、どうにかする気もない。ああ、もちろん身に付けている聖騎士の紋章を手放しても無意味だからそのつもりでね」
本物のレオンハートは記憶世界崩壊を受け入れるように目を閉じた。
そして、次の瞬間力強く目を開いた。さっきまでの寂しさと悲しみに満ちた目ではなく、強敵に挑む英雄の目で。
「僕のことを思うのなら、最後まで僕のやりたいようにやらせてくれ。それが僕の願いだ」
「……わかった……とは、言いたくないな」
だが、言わざるを得ない。俺に解決策がない以上、これ以上の問答は残り少ない時間を奪ってしまうだけなのだから。
……ってのがまあ、いわゆる賢い奴の考え方なんだろうなぁ。
そんな俺の心をどこまで読み取ったのかは知らないが、本物のレオンハートは小さくありがとうと呟いてから声を張り上げるのだった。
「僕の最後の仕事……それは、君の中に巣食う怪物、光の怪物への対処さ」
「……光の、怪物?」
聞き覚えはないが、心当たりはある。要所要所で俺の意識がなくなったときに現れるという怪物のことであり、かつてこの記憶の部屋で俺の魂を見たときに感じた何か。
恐らく、本物のレオンハートが言いたいのはそいつのことだろう。
「覚えているかい? 僕がキミの魂を縛っていた鎖を砕いたのを」
「ああ。覚えているさ」
流石にあんな衝撃的な事件を忘れたりはしないだろう。記憶喪失じゃあるまいし。
「あのときに砕いたのは、間違いなくキミの魂を縛っていた呪縛だ。でも、どんなものでも壊れればそこが綻びになる。器についた傷から中身が溢れだしているのさ」
「……心当たりはあるな」
ここ最近の力に急上昇。そして自分でもおかしいと感じる過激な思考。それらが恐らくは繋がっているのだろう。
魂なんてもんのすぐ側にあったものを破壊したんだ。そりゃ精神に不具合の一つや二つ発生するわな。
「本当は都合よく力だけ流れてこないかって期待してたんだけどね。流石にそれは都合のいい妄想だったようで、あの怪物の意思まで流れ出てきたせいでキミの魂を侵食していたんだよ。そういう意味では、吸血王によって無理矢理魂を孤立されたのはラッキーだったね。恐らく、魂への侵食をここまで見事に……完璧に切り離せるのは世界広しとはいっても魂を支配することに長ける吸血王くらいだ。おかげで大分やり易くなったよ」
「えっと……」
「とにかく、キミにはこれからあの化け物と真っ正面からぶつかってもらう。知らず知らずのうちに乗っ取られるのを防ぐには、こっちからぶん殴りにいく他ないからね」
「あ、なんか急に分かりやすくなったな」
つまりその化け物とやらを殴ればいいんだな。それならよくわかる話だ。
そんな俺の理解を肯定するように本物のレオンハートは頷くのだった。
「言うまでもないけど、あれは超がつくほどに強力な化け物だ。はっきり言って、その性能を全開にすれば四魔王だろうが倒しかねない存在だよ」
「……まじで?」
その四魔王の一人、吸血王にあっさり術に落とされた俺からすると驚愕でしかないんだけど。
その光の化け物って……本当になんなんだ? 何でそんなのが俺の中にいるんだ?
「正直なところ、その正体は僕にもわからない。でもその力と特異性から考えて、まず自然現象ではあり得ない。しかしそんなものを作ることなんて四魔王でも無理だろうと確信できる存在だ。そこから考えて、一番有力な仮説は……」
「……仮説は?」
「魔王たちすら超える存在、4体の精霊竜が主とする究極の一つ、創造の女神……くらいじゃないかな?」
「……薬いる? 主に頭の」
本物のレオンハートは大真面目にそんなことをいったが、いやいや待てよと俺は首を振る。
いくらなんでも……ねぇ? 犯人は神様ですとか、それで済むなら騎士も兵士もいらないってば。
「まあそれが普通の反応だろうね。精霊竜の言葉くらいしか証拠がない、お伽噺の住民を出されてすぐに納得されたら僕も困るし。実際、僕だってアレがなければ思い付いても口にはしなかっただろうからさ」
「……アレ?」
「『時間逆行』だよ。局所的かつ短時間の……小さなやり直しですら机上の空論に空論を重ねた時間魔法が必要なのに、世界全体を……20年以上も巻き戻すなんてもはや説明不能だ。僕に論文を出せと言われても、特定条件を満たした状態で魂のみの時間移動術による擬似的な世界時間再生くらいしか思いつかな……」
「あの、その話長くなる?」
聞いているだけで頭が痛くなって眠くなるんだけど。と言うか寝ていい?
俺、普通に疲れたーって叫びながらベッドにダイブしても許されるくらいには疲れていると思うんだ。
「おっとごめんごめん。時間もないのに余計な話をしたね。まあとにかく、時間を巻き戻すなんて狂ったことができる奴は神くらいだろうってことさ」
「うーん……でもなぁ。その時間逆行とこの件が同一人物の仕業だって根拠ないだろ?」
「こんなのが複数いてたまるかってのが根拠……というのは無茶苦茶だけど、まあ信じる信じないは平和になってからゆっくり考えてくれ。とにかく、今から相手にしなきゃいけないのはそういう次元の存在が作った化け物だってことだよ。あれは放置すると世界を滅ぼすと断言できる存在だ。だから、僕が消える前に何とかしておきたいんだよ」
「色々と腑に落ちないところはあるけど……わかった。で、どこにいってなにと戦えばいいんだ?」
「ん? いや、ここにいてくれればいいよ。僕が僅かに空いた穴を広げてくるだけだから」
「え? 戦うんじゃないの?」
「戦いといえば戦いだけど、殴りあいじゃない。さっきまでキミが吸血王の幻術世界でやっていたのと同じ……自我の戦いさ。恐らくは圧倒的な思念でキミの人格を塗り潰しに来るだろう光の化け物を、自分の意思の力ではね除けるんだ」
「……大丈夫なのかそれ?」
「普通に考えれば大丈夫じゃないね。負ければそのままキミの魂はあの怪物に飲み込まれ、中途半端に勝ってもまた魂が侵食されるだけだから」
大したことでもないって感じに語る本物のレオンハートだが、それはどうなんだ?
そんな簡単に人の魂を賭けに使わないでほしいんだが……。
「言い方を変えれば修行だよ。失敗したら死ぬ。いつものことだろ?」
「ああ、なるほど」
そう言われると納得だな。確かに気構える必要もないことだ。
命なんてハウスダストより軽い――ってわけではないが、まあ修行とはそういうものだ。重要なのは失敗したときのことを不安に思うのではなく、何としてでも生き延びるって決意を持つこと。
うん、いつも通りだ。
「んじゃ、行ってくるね。多分僕がこの部屋を出てすぐにこの記憶の世界は崩壊し、正真正銘キミの部屋になるだろう。……つまり、さようならだね」
「……さようなら、ね。なあ、一つだけいいか?」
「ん? なんだい?」
「俺がさ、どうしようもないくらいで諦めるような行儀のいい人間に見えるか?」
「……ぷっ! アハハッ! そりゃそうだ。そうじゃなきゃ英雄じゃないよね。不可能を可能にしてこその英雄だ。そういうことならまあ……さようなら、じゃなくてまたねって言っておこうか」
「ああ。またな。お前が記憶だってんなら、俺の記憶の中で生き続けろよ。意地でもまた引っ張り出してやるからな」
「フフ……再会を楽しみにするとしよう」
レオンハートは、腕を一振りすると空間に扉を出現させる。
恐らくは、あの中が昔訪れた魂の間なんだろう。
「……最後にアドバイスだ」
「ん?」
「『レオンハート・シュバルツ』は間違いなくキミの名だ。キミこそが本物なんだ。その自信とプライドは忘れないでね」
一言言い残し、レオンハートはこの世界から消えた。
◆
「……さて、と。戦う必要はないとは言ったけど、僕が戦わないとはいってないんだよねこれが」
僕は再び記憶世界ともう一人のレオンの記憶を結びつけることで彼の魂の元へとやって来た。
……まったく、自分でわかっているのかね? 本来全ての鎧から剥がされもっとも無防備な状態であるはずの魂が、ここまでの圧力を放っているって意味がさ。
(魂を支配している光の化け物こと神造英雄の白光。最強格の怪物、吸血王由来の闇の血から来る黒光。そして……その二つに挟まれてなお輝きを保つ、暖かい黄色い光。魂の研究分野には明るくないけど、これは相当特殊だろうね)
まず、黄色い光を放つ魂があった。つまり普通の人間の魂だ。
そこに、何者かが暗示と共に白い光を植え付けた。本来なら元の魂を塗りつぶしてしまうほどに強力な存在を、無理矢理に。まるで道具を作る材料にでもするかのように。
その結果人間の魂を主人格として残したのは驚嘆に値する。神業という他ない偉業だろう。もちろん耐えきった魂も凄いのだが、人間の魂を使って作り上げたというだけで奇跡なんて言葉すら陳腐になるほどのことだ。
そして、そんな歪な奇跡の産物に吸血鬼の血が注がれた。普通ならどんなに頑張っても無防備な魂など侵食され黒に塗りつぶされるのだが、そこにあったのは無防備とは縁遠い怪物の巣。逆に黒い光は白い光に飲み込まれていった。
だが、そこで更なる奇跡が起きる。どちらかの消滅でしか決着を見ないはずの衝突は、間に人間という白にも黒にも染まる弱い魂を挟んだことで共存した。これは神ですら予測し得ない奇跡だろう。
すべてを受け入れ、前に進む意識……言い方を変えれば単純バカの魂でなければあり得なかったはずだ。
そうして出来上がったのが、この白と黒と黄色が三層に積み上がった魂。このまま安定してくれれば問題はなかっただろう。
だが、ある意味元凶である僕がいうのもなんだが、やはり奇跡に頼った安定は脆いものだ。本来の住民である黄色を白も黒も追い出すかのように輝き、縛っている。
吸血鬼の方は一度侵食を止めた後は活動を停止しているから使いすぎなきゃ問題ない程度だが、僕が開けた穴から白光はどんどん侵食しているのだ。
対症療法なら穴を塞げばいいのだが、それじゃ元の木阿弥だ。いつまでも自分の魂に得体の知れないものが張り付き、支配してくる状態が良いものであるはずがない。
そのためにも、僕も頑張らないとね。
「……いくら彼が正道に立つ筋金入りの頑固者だと言っても、この存在に真っ向勝負で勝てるわけがない。そもそもあの頑固さの何割かはこの怪物の影響……精神操作の類いだろうし、今のまま魂でぶつかっても飲み込まれるのがオチだろうね」
だから、僕が弱らせる。残り少ない記憶の欠片。その全てを使いきってでも、こいつを弱らせる。
そして、レオンハートに勝利を与え、世界を救ってもらいたい。彼は勇者ではないかもしれないけど、この僕が認めた英雄だ。
だから――賭けさせてもらうよ。他力本願って言われるかもしれないけど、この怪物を手懐けたキミなら僕が見られなかった未来を見られると信じているからさ。
「おいで、僕の剣」
記憶の世界において、全ての持ち物は自由に取り出せる。条件はただ一つ、自分がそれを持っていることを疑わない。それだけだ。
「さあ、やろうか。神造英雄」
光に向けて、僕は僕の光を放った。
――最深部への攻撃を確認。
――対処、神造英雄起動。
「――来い!」
今の僕が勝てる相手ではない。記憶の残りカスが立ち向かっていい相手じゃない。
でも、やる。信じた英雄のために、未来のために。……僕は初めて、託す戦いをするんだ。誰かに託されるのではなく、僕が託す役。
なるほど、思ったよりも――
「悪くない、かな」
世界は、光に覆われた。
◆
「――嵐龍閃!」
「ッ!?」
俺はボーっと突っ立っていた身体に活を入れ、俺をただ眺めていた吸血王に向かって思いっきり剣を振るう。
……実時間だと精々30分くらいなんだろうけど、こうして嵐龍を持つのは俺の体感時間じゃ3年ぶりだ。まったく、面倒くさい術をかけてくれたものだな本当に。
「……ふむ。我が術を破ったか」
「……ちょっと苦労したけどな」
おまけに、手痛い代償を支払うはめになった。本人はこれが本来自然な形だなんて言ってたが……クソ、まだまだ教わりたいことは沢山あったんだぞ!
「どれ……」
いきなりの嵐龍閃を軽く回避した吸血王は、右手を俺に向かって突き出した。かなりの距離があるので、遠距離攻撃だろうか?
「回収」
「ん?」
俺の胸の辺りから黒い霧のようなものが現れ、吸血王の手に集まる。
あれは……何だ?
「……なるほど、三年か。我らからすればちょっと寄り道した程度の時間であるが、人間からすればかなりの時間ではないのかね?」
「今ので幻術の世界を作っていた精神体ってやつを回収したわけか」
「ご名答。幻術空間の中で何が起きていたのかは大体把握した。……少々不可解だがね」
「ん?」
「あれは本来悪魔たちが好む魂を堕落させる術なのだが、お前はその前段階で術をはね除けた。これは本来あり得ないことだ。術に術で抵抗したのならわかるが、精神力だけでそれを成すのは不可能。人間であればな」
「……何が言いたい?」
「お前が人間であることはわかっている。だが……その中身は本当に人間なのかね?」
吸血王は全てを見透かすような目で俺を見るが、怯まず鼻で笑ってやる。
何せ……俺がいったい何なのかなんて、俺にだってよくわかんねぇんだからな!
「……一つだけ、言えることはあるけどな」
「ほう?」
「俺はレオンハート・シュバルツ。それ以上でも以下でもない。それだけわかっていれば十分だ!」
俺の魂を縛るものは、消えた。そのせいで爆発したように俺の精神を渦巻く情報の集まりだが……うん。はっきり言って考えてもわからん。
だから、面倒くさいことは後で考えることにした。別に、俺の正体が何なのかなんて元々興味ないしな。
だって、俺がどうあるかを決めるのは結局俺だけなんだから。
「今やるべきことは一つ、お前をぶちのめすことだけだ!」
俺は大きく宣言する。もう面倒なことなど知るかと。俺は俺。それだけわかっていればいいのだと。
そんな俺に、吸血王は口元を隠すように自分の顎に手をやった後、ポツリと呟いたのだった。
「なるほど。精神の異常な強度……いや狂度とでもいうべきか? 魂の浄化も行わずに強制転生させた上に改造までするとは……女神も残酷なことをする。強制的な英雄化というわけか」
「……ま、そう言う事なんだろうな」
「自分でも理解しているか。ならば、まだ戦うのかね? 自らの運命を歪めた存在に怒りは? 恨みはないかね? 生まれる前から辛い道を歩まされたことに、復讐したいとは思わないのかね?」
「悪魔の……いや、吸血鬼の囁きか? まあ、どっちにしても答えはひとつだ。……俺が歩んできた人生は俺のものだ。それを誰かのせいにする気なんてない」
「なるほど、また妙な悟りを開いているな。……さて、では……」
「闘るか!」
「帰るとしよう」
「えっ!?」
俺は突然の帰還宣言にちょっとこけそうになる。
いや、ここはお互いに戦闘開始の流れだろうどう考えても。俺も不本意ながら休憩とらされたおかげで大分回復したことだし……。
「目的は達成したからな。相手の深層心理にまで思念体を送り込んだのだ。我にとっては十分すぎるほどの情報を得ることができた」
「……で、逃げられるとでも?」
「くだらんことを言うな。見逃してやると言っているのだ。……それに、ここで我に殺されている時間はあるのか?」
「あん?」
吸血王はどこまでも自信満々と言った様子で俺の挑発をかわす。
こいつ、いったい何を考えているんだ? 本当に何しにきたんだよ……?
「お前からすれば三年前のことであるが故に忘れているかもしれないが、今は征獣将……魔獣王の配下との全面戦争中だろう?」
「あ」
そういえば、今そんなことになっていたな。目の前の脅威一人のほうがその魔獣全軍より恐ろしいってのもあってすっかり忘れてたわ。
「我の幻術世界は大体現実での10分で1年の時間が経過する。そこから逆算して、大体ここに封じられてから既に30分から40分ほどの時間が経過していることになるな。これ以上時間を無駄にしていいのか?」
「グググ……」
「本来なら我はお前をここで仕留めてもいいのだが……女神の狙いも少し読めた。ここで仕留めるよりも有益な使い方があるというのが我の最終判断だ。それをありがたく思い、精々急いで帰るのだな」
「チッ! 自分の仲間の邪魔をするってのか?」
「仲間ではない。お前たちがどう思っているのかは知らんが、我ら原初の四魔王は同じ神に忠義を尽くす同士であってもそれ以外は自分の配下を除けば大して興味がないのだ。目的達成のためなら利用することに躊躇いなどないとも。特に、魔獣王の奴はその手の情に乏しい個人主義者なので配慮もいらないことだしな」
吸血王は自分達の関係性を何でもないことのように説明した。
……正直、俺には理解できない関係性だな。多分上に立つものとしては平然と他者を利用できる性格の方が向いているんだろうけど、やっぱ俺には向いてないか。
「では、結界を解除しよう。ああ、それと一つだけ別れの挨拶でもしておこうか」
「挨拶だと?」
「もし貴様がこの戦いに勝利することができたのならば、東の大陸へ来い。その地に住まう山人族共を今魔剣王の軍勢が攻めているところだが……その地にて決着をつけてやろう」
「……ほう」
元々、この西の大陸での戦いを終えれば次は東の大陸へ向かうつもりでいた。
だからその申し出自体は言われなくてもそうするって話なのだが……正直こんなことを言われるとは予想外だな。
まさか、そっちから決戦の申し込みがあるとはよ。
「それだけだ。では、健闘を祈っているぞ? 精々死に物狂いで我らの下まで来るがいい」
吸血王はそれだけ言うと、その場から一瞬にして消え去った。空術の類だろうが、去り際まで規格外な奴だ。
正直、何を企んでいるのかまったく分からないな……っと!
(空間の崩壊! この結界そのものを解除しているな)
ミハイが主となって作った異空間が揺らぎ、消滅を始める。どうやら本当に俺を解放する気らしい。
奴らの思惑に乗せられているようで非常に不愉快だが……仕方がない。こうなれば、外に出ると同時に大急ぎで戻ろう。
きっと、皆なら俺がいなくても何とかしてくれるだろうけど……だからって、動かないって選択肢はないからな!




