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詰め合わせギフトパック  作者: たまさ。
短編・よみきり
54/58

トカゲの王子様

タタン、タタン、と規則正しい列車の音。

緩い振動と明滅する明かり。時折り聞こえる甲高い音は列車の警告音だろう。

慣れた振動と物音。

深い眠りと浅い眠りの狭間で、何の異変を覚えた訳でもなく、ただ自然に瞼は小さく震えた。

「おきたかね」

低い問いかけに、少女はゆっくりと体を起こして目元をこすった。

「まだ、ついてない?」

「まだついていないね」

「遠いいの?」

「いいや、もう間もなくつくだろう。そろそろ起こそうかと思っていたところだ、シュリア」

 単調な口調の男は、仕立ての良いスラックスに絹地のシャツ――首のタイはふわりと巻かれただけで、紋章の刻まれたピンで留めてある。上着もコートもハンガーに掛けられた状態で列車の個室の出入り口に並んでいた。

組んだ足の上には冊子が置かれ、彼がそれまで熱心に読書にふけっていたことをうかがわせる。


 親子程も年の離れた二人だった。

シュリアは黒髪の娘で、年齢でいえば十三、四。そしてもう一人の男は色素の薄い金髪の青年で、一見すれば二十歳を越えて三十に届きはしないだろうという年齢。

「ねぇ伯爵(ロード)

「なにか?」

「あたし寝すぎた?」

「そんなことはない。だがもう寝るのは辞めたまえ――おりる準備が必要だろうから」

穏やかな調子で言われ、あふりと欠伸を一つ噛み殺してうなずく。

眦に涙が浮かんだが、ただの生理現象に過ぎない。


体を伸ばして窓の外へと視線を向ける。

広がるのはなだらかな牧草地。茶色と白斑の牛がのんびりと草を食む姿が車窓から流れていく。

牧場があるのだから、確かにそろそろ列車は止まることになるだろう。もう幾度もそんな光景を目にしていたシュリアには、それが判っていた。

「こんどの町はどれくらい滞在するの?」

「そうだね、長くても三日――」

「三日かぁ、その間に美味しいお菓子の店を全て回れるかしら?」

「シュリアに掛かれば二順はいけるだろう」

「褒め言葉としてとっておくわ」

ふふんっと胸を逸らすシュリアを冷笑で見つめ、青年は膝の上の本を閉ざした。

「列車の速度が落ちたな――忘れ物をしないように」

言われる言葉を耳の奥に通過させながら、シュリアは窓の外に広がりはじめた町並みに笑みを浮かべた。


***


「いらっしゃいませ」

鷹揚なホテルの支配人の言葉に伯爵(ロード)がうなずく。差し出される宿帳にサインをすれば、背後でシュリアが声をあげた。

「ロード、二軒先にキャンディのお店があったわ」

「まずはチェックインが先だろう」

「もぉっ、そんなのはロードがすればいいのよ! ねえ、お金! お金ちょうだいっ」

好奇心一杯の瞳をしてコートの裾を引かれ、青年は嘆息してホテルの支配人に肩をすくめて見せ、自分の一歩後ろで「はやく、はやくっ」と言う少女を振り返る。

「一人では危険だろう、シュリア」

「二軒隣なのよ!」

「ああ、それでしたら――ジョシュア、ジョッシュ」

 支配人が声をあげると、奥の扉から一人の少年が顔を出した。栗毛の少年がぺこりと顔を下げる。

「うちの(せがれ)です。

ジョッシュ、そちらのお嬢さんを二軒隣の菓子屋まで案内してあげなさい。きちんとホテルまで連れて戻るんだ。いいな」

「え、ああ――はい」

ジョシュアは頭の上の帽子を一旦とり、ぺこりと挨拶する。その視線はシュリアの姿に瞬かれたが、シュリアは少しも頓着しなかった。

「ロード、ねぇ、お金っ」

「あまり無駄遣いはしてはいけない」

「判ってるわよ」

 嘆息交じりに言いながら、それでも菓子を買うには十分過ぎる程の貨幣を少女に握らせ、苦笑と共にジョシュアへも手渡す。

「礼だ。とっておきなさい」

「え、あの……はい、ありがとうございます」

お礼というにはやはり安くはない金額。だが相手はさして気にするふうもなくシュリアへと視線を戻した。

「いっておいで」

単調な言葉に、少女はもう振り返りもしなかった。


***


「親子で旅行?」

隣を歩く少年の言葉に、シュリアは首をかしげた。

シュリアよりも二つか三つ程年齢が上らしい少年は、先ほどくしゃりと握りつぶした帽子をまた頭に乗せ興味深い様子でシュリアを見下ろした。

 そばかすの散る頬は少し赤く、何の変哲も無い茶色の眼差しはシュリアにとって面白みを感じさせはしなかった。

「親子じゃないわ」

「じゃあ、親戚とか?」

「親戚でもないと思う」

「……えっと、どういう関係?」

不思議そうに尋ねる少年に、シュリアは一旦ぴたりと足を止めて瞳を瞬いた。

相手が何故そんな意味もないことを尋ねるのか理解できなかった。

「さぁ?」

「え?」

「よく知らない。気付いたらずっと一緒だったし、ずっと旅をしていたし……ああ、たまには大きな屋敷に戻ることもあるわね。数ヶ月滞在することもあるけれど、退屈になるとすぐに旅に出るの。今もそんな感じ」

 シュリアはそう口にし、

「そういえば、どうして一緒なのかしらね?」

と、むしろ今はじめて気付いたかのように呟いた。

ジョシュアは困ったが、それ以上明確な返答は得られないだろうと苦笑を返した。

からかわれているのかな。そうおもったのだ。

「そういえば、さっきあの人のこと伯爵(ロード)って言っていたけど……貴族?」

「知らないわ」

「……」

「でも、彼はロードよ。それは確か」

シュリアは会話に疲れたようにとんっと地面を蹴った。

「ロードはロード、そしてあたしはシュリアよ」

――変なコ。

ジョシュアは正直に思ったが、シュリアはとても可愛らしい女の子だった。

この町の女の子達とは違う洗練されたといえば良いのか、何かまったく違う空気を持っていて、そして魅惑的に笑う。

 それは到底十三・四の娘の持つものではなくて、だからジョシュアは腹部に何かを押し当てられるかのような嫌な気持ちになった。

つまり、彼女は人形なのだ。

――金持ちの人間が囲う、自分の好きなように扱える人形。愛人という言葉を使ってもいい。ジョシュアの家のホテルには時折そういう客がいる。

コールガールを連れ込まれるよりはいいなどと父は言うが、大人の毒牙に掛かるのがあのような幼い娘だと思えばやりきれない。

 そしてそのやりきれないという思いと同時、ジョシュアは少女の瑞々しい唇にこくりと喉を鳴らした。

「ジョッシュ、おいてくわよ!」

「え、ああ。ごめん」

 十五歳のジョシュアは、まだ口付けを交わしたことが無かった。

友人達の間では、だれそれと口付けを交わしたことやそれ以上の関係に至ったなどと話題にあがったりもしたけれど、ジョシュアはまだそれを経験していない。

――町の女の子達に興味がないわけではない。

でも、彼女たちの誰かと口付けを交わすのは想像もできない。

けれど、自分の前を軽やかに歩く少女とはじめて口付けを交わすのは――なんだか悪くない。

口元が緩むのをそのままに、ジョシュアは少し前で柔らかそうな髪を揺らす少女を見つめていた。


***


「荷物はここに置きますよ」

ポーターの言葉にその男は悠然と笑みを浮かべてうなずいた。

備え付けのクロゼットからハンガーを引き出して上着を掛ける。それから二つある荷物のうちの一つ、大きいほうの旅行用鞄を開き、中から幾つかの女性用ドレスを引き出して同じようにハンガーに掛けた。

「見慣れたな――味気ない。新しく買うか」

眉間に皺を刻んだが、新しくドレスを作るのであれば一両日中にできるものでは無い。しばらく迷う素振りでドレスを眺め、軽くその表面を払った。

「まぁいい」

静かに呟いて近くのソファに座る。

一番良いホテルだという触れ込みであったが、置かれている調度品はさして良いものでもない。

 旅にもそろそろ飽いた。

潮時なのかもしれない。

そう思えば目元が皮肉気に笑みの形を浮かべる。

全てを終わらせるのであれば、シュリアの処遇も考えるべきだろう。シュリアとの付き合いも気付けばすでに長い。それはだらだらとした惰性のようにも感じるし、また違うものである気もする。

――処遇、処分。

そう考えて、息をつく。

「まぁ、まだ……いい」

もう幾度もそう呟いた気もする。

では、いつならば良いのか――すでにこの遊戯は自分の中ではじめのものとは違う色を持ち始めていることに気付いている。

 吐息を落として葉巻の先端をカットした。


「誰か殺してくれれば楽だな」

呟きは紫煙と共に大気に溶けた。

自分の手を汚すことを厭うことは無い。だが、ふいに零れ落ちた言葉には本心がのぞいていたことに口の端が歪む。

自分の目に付かぬところで、自分の知らぬ間にその命を終えてしまえばいい。


そうすれば――この遊びも終いだ。


***


 キャンディショップで丸い瓶に入れられた色とりどりのキャンディの味をいちいち言葉にしながら、シュリアは瞳をきらきらと輝かせて幾つもの飴を購入した。

「チョコレートはないのね」

 残念だわ、と唇を尖らせるのをジョシュアは見つめながら自分の心臓が奇妙なリズムを刻むのをやり過ごす。

 視線がちらちらとシュリアの瑞々しいふっくらとした唇へと向かってしまう。

「ジョッシュ?」

その視線に気付いたのか、シュリアは可愛らしく小首をかしげた。

「え、あ、ああっ。ホットチョコのこと?」

「飲み物じゃなくて固めたものよ? 場所によっては無いのよねぇー」

アーモンドが入っていたりリキュールが入っていたりして美味しいのに。切なそうに吐息を落とした。

 その言い方が「これだから田舎はイヤ」といわれているようで、ジョシュアはなんとなく眉間に皺を刻んだ。

「シュリは旅をしているって言うけど、もともとはどこから来たのさ」

「だーかーら」

 シュリアも眉間に皺を寄せ、どうしようもない馬鹿ね、とでも言うようにジョシュアを見上げてくる。

「知らないわよ。もうずぅっと旅をしているのだもの」

「――ずっと?」

「そう、ずっとよ」

 理解した?

その瞳が煌いてつげるが、その言葉に今度はジョシュアは不安になった。

「あの人は本当に伯爵なの?」

「ジョッシュはお馬鹿さんなの? あの人はロードよ――さっきも言ったのに!」

「だって、普通伯爵っていうのは領地の管理をするものだろ?」

「普通なんて知らないわよ。だってロードはロードだもの。いつも列車や船や馬車で旅をしているの。時々ふらっと幾つもある屋敷に戻るのよ」

 そうしてしばらく滞在すると、はじめのうちこそ「やはり自宅は落ち着く」などと言うくせに、やけにそわそわとしだして「シュリ、したくをしなさい」短く命じるのだ。


 シュリアは嘆息交じりに首を振り、買ったばかりのキャンディの一つを口の中に放り込んだ。

「もう何年も?」

「もう何年も! 何十年も。すごーく前からよっ」

 口の中に飴が入っている為に言葉がもごもごと出る。シュリアはホテルの入り口までたどり着くとぱっと駆け出し、回転扉に手をかけた。

「ありがとう、ジョッシュ。またお菓子屋さんに連れていってね!」

「まってよ、シュリ!」

 ジョシュアは慌てた。

ここではいさようならと言われてしまう訳にはいかない。彼には彼の計画があるのだ。次に進展させないことにはいけない。

 慌てて後を追いかけ、ホテルのロビーに入るとジョシュアは受付にいる父親にシュリアの部屋番号を確認した。

 しかし、耳に入れた番号は最上級スイートではなく、ワンランク下の部屋だった。

「スイートじゃないの?」

「スイートは彼女の父親が使っている。彼女には別の部屋を用意しろと命じられてね」

 その言葉に、シュリアは両手を腰に当て、大仰にうなずいた。

「ロードと一緒の部屋で休むと、小言がうるさいのよ。だから、部屋の空きがある時は別の部屋をとるの」

 今日はゆっくり寝れるわ!

と無邪気に言う娘に複雑な視線を向け、ジョシュアは部屋の鍵を受け取って彼女を昇降機へと案内した。

 このホテルの自慢の昇降機は手動で扉の開閉をし、ハンドルで操作する昨年いれたばかりの品物だ。これ一つだけでこのホテルの部屋全てを改装する費用がはじき出される一品だったが、ホテルには目玉が必要だといって無理に取り付けた。

 それをこれみよがしに披露したのだが、生憎とシュリは少しも驚嘆した様子は見せなかった。

 各地を旅しているというのだから、こういった最新式のものにも目が肥えているのかもしれない。

 軽い落胆に嘆息し、昇降機の中に入ると途端に耳まで熱をもちはじめた。

「シュリア」

「なぁに?」

 シュリアは口の中の飴を舌先で転がしながらもそもそと返事をした。その手は袋の中の飴をいじくりまわしていて、次に何味を試そうかと思案している風。

 こちらを見て欲しくて肩に手をかけ、ばくばくと動く心臓を宥めながらジョシュアは言った。

「あのさ」

「うん?」

「――」

 ふいっと視線が向けられたところで、身を伏せるようにしてシュリアのもごもごと動いている唇にめがけていったのだが、生憎と目測を誤ってしまったようで歯と歯ががちりと音をさせ、ついで血の味が滲んだ。

 相手が怯んだところで片手で肩を抑えるようにそのまま唇をきちんと合わせようと動かす。

 目を閉じたまま血と飴の味とを感じ、唇の柔らかさに腹部に熱を感じ、何かが自分の脳内で明滅するような感覚にうっとりとしたが、唇がふいに離れた。

「あら、まぁ」

 少し残念に思っているジョシュアが瞳を開くと、視界に入ったのは――クリーム色のふにゃりとした壁で、ギョッとしたジョシュアが瞳を見開くと、自分よりも随分と高い場所から声がした。


「チーシュに口付ける変態はロードだけかと思っていたわ」

 小さな服の端を引き裂き、お情け程度に体に引っ掛けてその場にいたのは、先ほどまでのシュリアではなかった。

 あまりのことに狭い昇降機の中でざっと動いたジョシュだが、面前の――突然二十歳を過ぎた頃合の女性となったシュリアはリボンの解けた髪をばさりと跳ね上げて眉間に皺を寄せ、それはそれは色っぽい溜息を落とした。


「どうしてくれるのよ? これ、朝日を浴びないと戻らないのよ?」


***

 

「ありがとう」

にっこりと微笑んだシュリア――今は妖艶な美女は、部屋の寝台に腰を預けてキルトを肩から羽織るようにしてジョシュアを見つめた。

――どうして?

 咄嗟に化け物と叫ばなかったことをジョシュアは自分と神に感謝した。

今まで生きていた中で、子供から大人にかわった人間など見たことが無い。だから化け物という表現はそれほど間違ってはいなかったはずだが、それを口にしていたら今のように彼女は微笑まなかっただろう。

 ジョシュアはどぎまぎしながら彼女の為に珈琲を入れ、差し出した。

「ロードの話ではね、呪いなんですって」

「呪い?」

「そうよ?――あたしは呪われていて、血を含ませた口付けで子供から大人にかわってしまうの。そうして翌日の朝日を浴びるまで元には戻れないの」

 肩をすくめてカップに口をつけたシュリアは、ふーっとわざとらしく肩をすくめた。

「呪いを解く為に信仰に満ちた教会を探しているの」

 だから各地を旅しているわけ。そういいながら、シュリアは小首をかしげた。

「生憎とそんな教会にいきあったためしがないからこの格好なのだけど」

 その話は到底信じられるものではなかったが、現に彼女はその姿をかえてしまった。ジョシュアはどきどきとしながら銀色の丸盆を抱え込むようにしてシュリアを見つめた。

 豊かな胸を隠すように今はキルトにくるまった体。

組んだ足がすらりと伸びて、時折組み替える様子はジョシュアのか弱い心臓を止めてしまいそうな程に扇情的だ。


呪いなどというととても恐ろしいのに、シュリアは恐ろしさなど微塵も思わせない。なんて綺麗な女性だろう。

艶やかな黒髪は腰にまで伸びて、腰を預けた寝台の少し上を揺れている。唇は紅を刷いたかのように艶やかで、その睫毛は濡れたようにはっきりとしていた。

「でも、困ったわ」

 ふいに、シュリアは瞳を伏せてふーっと嘆息した。

「これではロードの前に出られないし、着替えは無いし……」

「着替えなら! あの、ぼくのお母さんの着替えでよければ持ってきます」

「そぅ? ふふ、優しいのね、ジョッシュ」

 ふわりと微笑みを向けられたジョシュアはばね仕掛けの玩具のように奇妙な動きを見せ、ついでわたわたと部屋の扉へと向かった。

「ちょっと待っていて!」

「ええ、ありがとう」

 ひらひらと手を振って相手を見送ったシュリアだったが、やがて肩をすくめて自分の体を抱きしめた。


「本当に困ったわ――」


***


「具合が?」

 菓子を買いにいくと行って出かけたシュリアが顔を出さないことを不信に思っていたが、夕食の準備をしている女給の説明に男は眉を潜めた。

「体調が優れないとおっしゃって。お食事は自分の部屋でおとりになるそうです」

「そう……そんなことを言って。どうせ食事の前に菓子を食べ過ぎたのだろう」

 うんざりとした口調で応じながら、伏せた視線でメインディッシュの子羊の煮込みを見つめた。 

 長い間シュリアと共にいたが、こんな風に食事時に顔を見ないことは滅多にない。シュリアは食べることに執着しているし、ロードの手元のデザートをどうやって奪うかをいつも虎視眈々と狙っているのだ。

 それでもそんなこともあるだろうと気に掛けずに一人での食事を済ませ、最後のデザートに指先を触れさせて苦笑した。


「これは残して、あとは下げてくれ」

 控えていた給仕に命じ、自分に一つ言い訳のように呟く。

「後でいただこう」

――そのマロングラッセは紳士らしく譲ってくれるのよね?

 子供の傲慢な言葉が耳によみがえる。

そう、ただあれが口煩く言う言葉が面倒くさいだけだ。そのうちに顔を出し、無駄にその日のことを喋り、菓子をねだるだろう。

 だが生憎と、読んでいた本を読破したところでシュリアが扉を押しのけて現れることはなく、ロードは指先で本の表紙を飾る金文字をゆっくりとなぞり、表面の乾いてしまったマロングラッセを屑入れの中に放り込んだ。

 心配するつもりなどないが、本当に具合が悪いのだろうか。いいや、具合が悪くなろう筈はない――

 時がめぐればめぐる程、考えたくもないのにシュリアのことを考える羽目に陥った男は、諦めに吐息を落とし、ガウンを引っ掛けて部屋を出た。


 男の部屋とは違い、それはこざっぱりと整えられた部屋だった。

扉を開き、すぐに寝台が見える。ただ泊まる為だけの部屋には、他には鏡台と丸テーブル、椅子が二客だけ置かれている。

 オイル・ランプの香りが漂ってはいたが、とうの昔に消されたそれは随分と前に部屋の主が就寝したのだと示した。

 窓辺に置かれた寝台の上、寝相の悪い女はキルトをかろうじて腹部にかけてはいるものの、むき出しの足で枕を挟みこんでいる。


「ディティニア」

 すらりと伸びた手足に、まろやかな肩口。呆れる程の成熟さを見せ付ける胸元にロードは眉間に皺を寄せ、その肩をゆさぶり声を掛けた。

「ディー」

「……その呼び方、やめて」

 もぞりと身じろぎした黒髪の女は不愉快そうに唇を尖らせ、月明かりの下で体を引き起こした。

「朝までほぅっておいてくれれば良かったのに」

「そうだな。朝までほうっておけば、呪いが発動し、お前は偽りの姿に戻る。私はおまえに何があったのか知らぬまま過ごしたかもしれない」

 淡々と言う男は、指先を女の唇に触れさせた。

「目覚めさせたのは誰だ」

「知らない」

「ディー」

 冷ややかな言い方に、ディティニアは眉を潜めた。

「知らないのよ。気付いたらこうだったの。あなたのチーシュの躾が悪いのではない? 誰とでも口付けを交わす娘になられると、困るのは私よ」

 小さなシュリアをチーシュと呼ぶディティニアは、高慢な微笑を浮かべて唇に触れたまま近くある相手の指先を、ちろりと舌先で舐めた。


「機嫌を損ねたのであれば沈めて差し上げてよ? マイ・ロード」

 寝台の上から上目遣いで見上げる女を冷たく見下ろし、男は冷ややかに言った。

「下らぬことをしないことだ、娼婦。おまえはただの死人でしかない」

「生きているわ!」

 気色ばむ女の顎先を掴み、一言一言区切るように囁きかける。


「生かしているのが誰だか、おまえが誰と契約したのか忘れているのではないだろうな」

「ロー……」

「可愛いシュリアが死ぬのは忍びないと思わないか?」

 淡々と言いながら、その言葉の矛盾に青年は冷笑を深めた。


――その死を望んだのは誰でない自分だ。


知らぬうちに誰かが殺してくれればと願っているというのに。

「契約書を私が燃やし尽くせば、貴様の命も。そしてお前が望んだ娘の命も果てると判らぬ愚かものではないだろう?」

 淡々と言いながら、顎先を掴んだ手を離し、優しく頬をなで上げる。

「約束と違うっ」

「愚かな娼婦。おまえは娘の命を誰に差し出したのか今も理解していないのか」

「私はっ」

「私が起こすまでおまえは眠っていればいい」

 低い命令に女の喉が喘ぐように上下した。ロードの手が喉元に触れ、強く親指が押し付けられる。

 自然と逸らされる首に口付けて、ロードは甘やかに囁いた。


「お前の命も、シュリアの命も私の意志一つだと忘れぬことだ」


***


 朝の冷ややかな空気が体にまとわりつき、口からは白い湯気がこぼれる。

かじかむ手で握りこんだ予備用の鍵は、四階にある客室のもので――本来であればジョシュアが軽々しく扱っていいものではなかった。

 胸が激しく鼓動しているのは、自分がしてはいけいなとことをしている自覚がある為か、それとも昨夜見たあの女性が、確かに子供に戻っているのかという興味か。

 嘘のような話だが実際自分の目で見て、体験してしまったのだから間違いはない。それに、もし朝に子供に戻っているのであれば、もう一度――口付けてみてもいいかもしれない。

 頬にかるく熱を感じながら、こっそりと真鍮の鍵を鍵穴に差し入れて息をつめてゆっくりとまわした。

 かちゃりと小さな音が耳に触れるのも更に緊張を高め、喉の奥がからからになるような気持ちでこっそりと扉の中に体を滑り込ませた。

 目にはすぐに寝台が飛び込み、それと同時に少しばかり落胆した。


寝台ですこやかな寝息をたてているのは、すでに子供のシュリアだった。

キルトを抱き込むようにして寝ている姿はとうてい寝相がよいものではなく、伸びた腕にそれでもドキリとする。

 こっそりと近づきながら、きてしまったけれど自分はどうしたいのだろうと戸惑った。

キス――してしまおうか。

 そうすれば彼女はまたオトナの姿になるのだろうか。

心臓がさらにばくばくと早鐘をうつのを感じ、ぎゅっと手の中の汗を握りこんだジョシュアは、違和感を感じて足を止めた。

 

壁に、背を預けてうでを組むようにして立つ男の姿に、さぁっと血の気がひいた。

扉の反対側にいた為に気付くのが遅れ、慌ててジョシュアは跳ねるようにして体ごとそちらに向いた。

「あっ、あのっ」

 客室に――しかも女の子の客室に朝っぱらから入りこむなどどう言い訳するべきか。頭の中でめまぐるしく言葉が走り回ったが、咄嗟に出たのは「おはっ、ようございますっ」という挨拶だった。


 そう、ホテルの従業員として――仕事のような顔をすれば何とか。

何とか……

「おはよう」

 伯爵(ロード)と呼ばれた青年は微笑をこぼし、小首をかしげた。

「ああ……君か」

そうか、キミなのか。

口の中で小さく言葉を転がし、納得したのかうなずいてみせる。

「あのっ、朝の珈琲をお入れしましょうか」

 顔がこわばり、体全体が緊張に力がこもる。

何でもないことのように会話を向ければ、ロードは二度うなずいた。

「昨日はシュリアが世話をかけたね」

「いえ。ちっとも」

 伯爵という立場になると細かいことは気にしないのだろうか? それともシュリアに対して干渉しない主義なのか。

 ほっと息をついたのもつかの間――ロードは小さな笑みを口もとに刻んだ。


「トカゲとカエルはどちらが好きかね?」

「はい?」

 会話の意味が理解できずに眉を潜めると、ロードは同じ言葉を繰り返した。

トカゲとカエル。

どちらも好むものではないが、子供の頃にはよく捕まえて遊んでいた。

ねとりとしたカエルよりも、さらりとしたトカゲのほうがまだ好ましい気がして、意味もわからずに答えた。

「どちらかといえば……トカゲでしょうか」

「トカゲもカエルも、シュリアは嫌いなのだよ。まぁ、もともとどちらでもいいのだけれど。一応希望をきいておこうかなと思っただけなのだ」

 淡々といい、ロードが指をぱちりと鳴らした。


それだけ――それが、最期。


***


「シュリア、そろそろ起きたまえ」

 平坦な声におこされ、シュリアはもぞもぞと寝台の中で身じろいだ。

冷たい外気が感じられ、更にキルトの奥へと身をもぐらせる。

すると、キルトをつかまれて引っ張られた。

「もぅっ。まだ早いじゃないっ」

「早かろうと遅かろうと、私が起きたときが起きるときだ」

 傍若無人な台詞にむっとしながら、それでも仕方なく体を起こしたシュリアは、面前にずいっと押し出されたトカゲの姿に悲鳴をあげた。


「なっ、なっ、何してんのよっ」

「これはトカゲだ」

「知ってるわよっ。ぎゃあっ、こっちに向けないでよっ」

 ぞわぞわと一気に走る鳥肌に悲鳴を上げると、つまむようにしてトカゲを持つ青年は淡々と言った。


「このトカゲは王子様が変身しているのだ」

「……馬鹿?」

「失礼だな。

とにかく。このトカゲは哀れな王子が悪い魔王にトカゲにされてしまった姿だ」

 どうして突然御伽噺なのか。

苛々としたシュリアは極力トカゲを見ずに唇を尖らせた。

「どうでもいいから引っ込めて」

「乙女のキスで人の姿に戻れるのだが――キスしてみるかね?」


真顔の相手をしらじらと見つめ、シュリアは指先を窓の外へと向けた。


「捨てて」


冷ややかな言葉に、ロードは小さく微笑んだ。

「カエルのほうがよかったかね」

「殴るわよ?

とにかく捨てて。投げて、飛ばして――あたしの前から消してっ」

「カエルでも駄目だったか。それはかわいそうなことをした」

 ロードはぼやくように言うと、窓をかたりとあけてソレを外へと放り出した。


「まぁ――誰かが口付けしてくれれば戻るさ」


「訳のわからないこと言ってないでっ、手を洗いなさいよねっ。

その手であたしに触ったら一週間口をきかないんだからっ」

 きぃきぃ言うシュリアに肩をすくめ。ロードは唇を引き結ぶようにして小さな笑みをこぼした。

「それよりっ、なに?

朝なのっ?

昨日の夕ご飯どうなってるのっ。食べ損なったってことっ?」

どうなっているのよっ。と一人騒ぐシュリアを無視し、ロードは窓を閉ざした。


「そんなことを言わずに教会に行こう――信仰心と善意の溢れる教会に」

「ロードって本当に教会が好きよね」

「世の中私が入れる教会ばかりだからね、楽しくてしようがない」





いつか――そういつか。

信仰と善意が溢れ、私が入れないような教会があった時には――きっとこの旅も終わるだろう。

それまでは、まだこの奇妙な遊びにもう少しだけ付き合っているのも悪くはない。


 



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