誰も疑わぬ善
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
朝の城は、異様なほど整っていた。
廊下に乱れはなく、襖は音も立てずに開かれ、
人々の足取りは静かで、無駄がない。
誰かが命じたわけではない。
だが皆が、この朝が「いつも通りではない」ことを、肌で理解していた。
空気は重く、湿った夏の残り香が、畳の隙間からゆっくりと立ち上る。
遠くで、庭の木々が風に揺れ、葉ずれの音がかすかに届くだけだ。
評定の間には、老中、側用人、高僧たちが揃っていた。
誰も私語をせず、視線を伏せ、ただ定められた位置に座している。
膝の上で手を重ねた指先が、わずかに白くなる。
息遣いが、部屋の隅に静かに溜まっていく。
――正しいことが告げられる。
その確信だけが、そこにあった。
誰もが、心の奥でそう信じていた。
やがて、読み上げ役が一歩前へ進み出る。
巻物が開かれる音が、思いのほか大きく響いた。
紙の擦れる微かな音が、部屋の静寂を切り裂くように広がる。
誰も顔を上げない。
ただ、耳を澄ます。
「――近年、殺生の風、世に満ち、人心荒ぶ」
澄んだ声だった。
感情の混じらぬ、よく整えられた声。
まるで経文を読む僧のように、冷たく透き通る。
だが、その言葉は優しかった。
「よって今後、犬猫はもとより、鳥獣魚介に至るまで、
みだりに命を奪うこと、これを禁ずる」
誰も、顔を上げなかった。
異を唱える者も、疑問を口にする者もいない。
それは――あまりにも、もっともな言葉だったからだ。
命を大切にする。
弱きものを守る。
それは、誰も否定できない「善」だった。
老中のひとりが、膝の上で指を軽く握りしめる。
高僧の目が、わずかに細まる。
側用人の肩が、ほんの少し緩む。
誰もが、心の奥で小さく頷いていた。
「慈しみをもって世を治めるは、為政者の本懐なり」
その言葉に、誰かが小さく息を吐いた。
安堵だったのかもしれない。
――これで、世はよくなる。
――誰も傷つかずに済む。
そう信じられる内容だった。
法は、罰を誇示しなかった。
敵を定めず、罪を名指しせず、
ただ「こうあるべきだ」という理想だけを掲げた。
だからこそ、誰も疑わなかった。
疑う理由が、なかった。
巻物が閉じられる。
紙の端が、静かに重なる音がする。
それだけで、すべてが決まった。
この朝、
評定の間に悪意を持つ者は一人もいなかった。
誰もが、純粋に「正しいこと」を信じていた。
老中の胸に、穏やかな達成感が広がる。
高僧は、目を閉じて静かに祈る。
側用人は、そっと息を整える。
部屋の空気が、ほんの少し温かくなる。
それでも――
この法は、静かに、人の首に手をかけ始めていた。
まだ、誰も気づかぬまま。
城の地下では、鎖の微かな擦れ音が響き、
ある小さな命が、ゆっくりと息を忘れ始めている。
町の片隅では、まだ生まれていない少女が、
この掟の下で、静かに目を覚ます日を待っている。
誰も知らない。
この朝が、どれほど多くの沈黙を生むのかを。
どれほど多くの命を、優しく、しかし確実に縛りつけるのかを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




