慈悲の影
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
江戸の朝は、いつものように優しく訪れた。
薄い朝霧が路地を覆い、
遠くの寺の鐘が低く響く中、
人々は家々の戸を開け、日常の営みを始めた。
魚河岸の活気ある呼び声が空に飛び、
川を行き交う舟の櫂の音が水面を叩く。
辻では、子どもたちが笑いながら駆け回り、
茶屋の煙が甘い香りを運ぶ。
あの七日間、表向きの江戸は、昨日までと同じ顔をしていた。
変わらぬ賑わいが、町を包み込む。
だが、微かな変化が、人々の手元に忍び寄っていた。
生類憐れみの令が発布されてから、
誰もが少しだけ息を潜めるようになった。
空気は澄み、しかしどこか重く、
誰もが無意識に周囲を気にする。
犬の影を探し、鳥のさえずりに耳を傾け、
足元に落ちる虫さえ、踏みつけないよう。
ある朝、長屋の前で、痩せた犬が鳴いた。
骨張った背を丸め、汚れた毛並みが朝陽に輝く中、
誰かの残した飯の匂いを追ってうろつく。
町人の男は、いつもの癖で足を振り上げた。
「しっ、あっち行け」――言葉は小さく、しかし習慣のまま。
その瞬間、低い声が空気を裂いた。
「おい」
振り向くと、役人が立っていた。
袴の裾が微かに揺れ、手にした棒が朝の光を反射する。
表情は硬く、しかし怒りではなく、ただの義務感が宿る。
「今、犬を蹴ろうとしたな」
男は慌てて手を振る。
「いや、蹴るつもりは……ただ、追い払おうと……」
言い訳は、最後まで聞かれなかった。
役人の棒が、地面を軽く打つ。
乾いた音が路地に響き、周囲の空気を震わせる。
「次はないぞ」
役人はそれだけ言い残し、ゆっくり去っていった。
残された男は、呆然と立ち尽くす。
胸の奥で、微かなざわめきが広がる。
昨日までなら、誰も気にしなかった小さな仕草。
今は、それが法の影に触れる。
やがて、男は苦笑いを浮かべ、周囲を見回す。
「……世も変わったもんだな」
近くの長屋から、くすくすと笑いが漏れた。
隣の老婆が、井戸端で手を休め、優しく声をかける。
「犬様のご時世かよ。こりゃあ、うっかり手も出せねぇな」
もう一人の男が、肩をすくめて応じる。
「まぁ、殴らなきゃいいだけだろ。
命を大事にするって、悪いことじゃねえさ」
言葉は冗談交じりだが、皆の目には、微かな戸惑いが浮かぶ。
あの犬の鳴き声が、遠くでまだ響く。
男は、家族の顔を思い浮かべる。
子どもたちが空腹を訴える夜、
犬に与える米二合の重み。
だが、まだ誰も怒っていない。
ただ、少しだけ、やりにくくなっただけ。
別の日、魚河岸の賑わいの中で、商人が顔をしかめていた。
朝の陽光が水面をキラキラと照らし、
魚の鱗が輝く中、桶に並ぶ新鮮な魚たち。
「これ、売っていいのか?
生きたままじゃなきゃ、平気らしいが……」
隣の商人が、ため息混じりに応じる。
「さぁな。今朝締めた分は、問題ねぇ、たぶん。
法は命を奪うなって言うけど、食うためにゃ仕方ねえだろ」
曖昧な言葉が、行き交う。
客たちは、魚を選びながら、耳を傾ける。
一人の女が、籠を下げて尋ねる。
「少し面倒だが、そのうち慣れるさね。
子どもたちに、優しい世の中だって教えられるよ」
商人は頷き、魚を包む。
手つきは丁寧で、鱗の感触が指に残る。
昨日までと同じ商いだが、今は心に小さな秤がかかる。
命の重さを、初めて意識する。
あの魚の最後の息遣いを思い、胸が少し疼く。
だが、家族の笑顔を思い浮かべ、続けるしかない。
役人の巡回は増えていた。
足音が路地を響かせ、視線が細かく町を舐める。
捕らえられる者は、まだ少ない。
注意され、咎められ、軽く罰を受ける。それだけ。
誰もが、笑っていた。
――少しだけ、気を遣うようになった。
それ以上でも、それ以下でもない。
江戸の七日間は、そんな穏やかな変化の中で過ぎた。
人々は思っていた。
「そこまで、おかしな話でもない」と。
法の慈悲が、優しい理想として胸に響く。
だが、誰も知らなかった。
本当の地獄が、まだ姿を見せていないことを。
微かな影が、静かに広がり始めるのを。
川辺で、桜は一人立ち止まった。
水面に映る夕陽が、揺れて美しく輝く。
町のささやきが、風に運ばれてくる。
十五の彼女は、胸元の痣に手を当て、思う。
――この変化が、どこへ導くのか。
生きることは、選ぶこと。
痛みの中にも、光はある。
あの老婆の言葉が、胸を温かくする。
「強く生きてりゃ、大丈夫だよ」。
江戸の夜は、静かに訪れる。
灯りが一つずつ灯り、
人々は小さな幸せを守る。
法の影の下で、誰もが共感する優しさが、
意外な試練を生むことを、まだ知らずに。
※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




