掌に残る冷たい嘘
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
その夜更け、闇はひどく深く、重たく沈んでいた。
音もなく広がりながら、新三の背に薄く張りついている。
それは、離れない。
触れているのか、触れていないのか、それすら曖昧なままに……
石畳は冷たく湿り、足元から這い上がる霧が踝を舐める。風のない夜、遠くで犬の遠吠えが途切れ途切れに響き、誰かの断末魔のように聞こえた。
新三はもう一度、文吉の長屋の前に立っていた。
足音を殺したつもりでも、昼の間ずっと握り潰していた紙包みの感触が指先にべっとりと残り、まるで皮膚の一部のように離れない。
板戸を叩く指先は震えを抑えきれず、力が入りすぎて乾いた音が夜の静寂を切り裂いた。
音は路地の壁に跳ね返り、嘲るように耳に戻ってくる。
わずかな沈黙。
その沈黙の中で、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
中から囲炉裏の薪がぱちりと爆ぜ、煙の匂いが隙間から染み出してきた。焦げた肉のような臭いが鼻腔にまとわりつき、胃の底をざわつかせる。
戸がゆっくり開く。軋む音が骨の関節がずれるような響きを立てた。
新三は戸口をくぐり、土間へと足を踏み入れた。
「……どうした」
文吉の声は昼間よりもさらに枯れ、喉の奥から絞り出されるようだった。火の光が横から差して、頬骨と眼窩のくぼみを深く黒く刻み込んでいる。その顔を見た瞬間、新三の喉奥で言葉が潰れ、息が止まった。
文吉の目は濁った井戸の底のようで、何も映していない。ただ虚空を覗き込んでいるだけだった。
ほんの一瞬だけ――
引き返せる気がした。
いまならまだ間に合う。
この包みを懐に戻し、何もなかった顔で帰れる。
だがその考えは、霧のようにすぐ溶けた。
指先のぬめりが、それを許さなかった。
新三は無言のまま懐に手を入れ、唐紙に包まれた小さな包みをそっと取り出した。指先が滑る感触は冷たく、湿っている。
「身体に効く薬だと」
声は低く震え、言葉が砂のようにざらついた。
一拍、息を吸う。
「町外れの薬師がくれた」
嘘は、思いのほか軽かった。
それが何よりも恐ろしかった。
文吉はすぐには包みを受け取らなかった。
火の揺らぎの中で、それをじっと見つめている。
囲炉裏の火が小さく爆ぜる。
煙が細く立ち上る。
やがて文吉はわずかに目を細め、乾いた手を伸ばした。包みを両手で受け取る。手の甲の青い血管が火の光で脈打つように見え、命の最後の灯火のようだった。
疑う素振りはなかった。
もはや疑う気力すら残っていないのかもしれない。
文吉は包みをすぐに開こうとはしなかった。
掌の中で、その小さな重みを確かめるように、ただ握っている。
沈黙。
新三は、文吉の閉じかけた目を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。白い息が闇に薄く溶ける。
「……文吉」
声はわざと柔らかく、低く落とした。
「顔色が……本当に悪い。昼間からずっと気になってて」
一歩踏み出し、囲炉裏の火に照らされた文吉の肩にそっと手を置く。
指先はまだ震えていたが、温もりを装って軽く握った。布越しに感じる骨はひどく細く、頼りない。
「薬、ちゃんと飲めよ。少しでも楽になるなら……俺、なんでもする」
言葉を並べながら、自分の声の響きをどこか遠くで聞いている自分がいた。
文吉はゆっくり目を上げた。濁った瞳に火の色が映る。
その光が、ほんのわずかに、温かく見えた。
「……新三」
声は弱々しく、しかし確かに震えていた。
「こんな夜更けに……わざわざ来てくれて」
乾いた唇が微かに弧を描く。
「俺なんぞを……まだ心配してくれる奴がいるなんて」
息を詰まらせ、小さく肩が揺れた。
「……ありがてぇ……」
その言葉が、新三の胸の奥に静かに沈んだ。
文吉は包みを胸元に引き寄せ、両手で包み込む。
まるでそれが今この瞬間に残された唯一の温もりであるかのように。
そしてゆっくり顔を上げ、新三の目を見た。
そこには疑いも猜疑もない。
ただ、純粋な信頼だけがある。
「新三、お前は……いい奴だな」
その言葉が胸を刺した。
鋭く、冷たく――
だがどこか、甘い。
新三は反射的に微笑んだ。
優しい顔を保とうとする。口の端がわずかに引きつる。
「ああ、そうか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「俺は……お前が元気になってくれるなら、それだけでいい」
最後まで言い切れず、目を伏せる。
伏せた視線の先で、文吉の指が紙包みをぎゅっと握り直す。
その動きはひどく無垢で、ひどく残酷だった。
囲炉裏の火がぱちりと弾ける。
赤い光が一瞬、二人を強く照らす。
文吉の顔には安堵とかすかな幸福。
新三の顔には、優しさを装った仮面の下で、何かがゆっくり広がり始めている。
文吉の目がゆっくり閉じていく。
その瞬間、新三はほんのわずかに息を止めた。
引き返せる最後の機会だったのかもしれない。
だが、何もしなかった。
指先にはまだ紙包みの冷たい感触が残っている。
その冷たさは、今、確かに文吉の掌へと移っていた。
闇は静かに、二人を包み続ける。
火の爆ぜる音だけが、小さく鳴る。
その夜、壊れていったのがどちらだったのか――
それは、まだ誰にもわからない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




