表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/47

脈打つ毒

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

そして現在。


あの夜、文吉の長屋を出てからというもの、

新三の胸の奥にへばりついたものは、一瞬たりとも剥がれなかった。


歩いても、座っても、横になっても、それは離れない。

昼の町を流れる人の声も、犬の遠吠えも、

新三の耳にはすべて同じ濁った音にしか聞こえなかった。

飯の匂いがすれば胸が焼けるように痛み、

犬の姿を見れば胃の奥がきつくねじれる。

生きているはずなのに、

何か一番大事なものが、もう死んでしまっているような感覚だった。


木椀の縁に残った、わずかにざらついた飯粒の感触。

鼻の奥にこびりついて離れない、薄く濁った味噌の生臭さ。

囲炉裏の弱い火に照らされた文吉の横顔――

頬骨が浮き上がり、落ちくぼんだ眼窩の底で、赤黒い炎が小さく揺れているだけだった。


それらは朝になっても消えず、

腹が鳴り続けても、

新三の内側で、じくじくと、まるで傷口に溜まった膿のように腐り続けていた。


生類憐みの令が最も苛烈に吹き荒れ、

江戸の町が怯えと飢えで息を詰まらせていた、その夜のこと。


新三は膝が笑うような足取りで、

神田の裏通りを抜け、さらに細い路地を三つ曲がった。

そこは昼間でも陽がほとんど届かない場所だった。

地面はぬかるみ、腐った菜っ葉と糞尿と黴の匂いが混じり合って、鼻腔を刺す。


目的の家は路地の突き当たりにあった。

屋根は半分以上苔に覆われ、軒先には古い縄で吊るされた小さな行灯が揺れている。

油が切れかけで、灯りは薄く橙色に濁り、ゆらゆらと痙攣するように明滅していた。


新三は戸の板を爪で引っ掻くように叩いた。

三度、四度。

指先の皮が剥け、血の匂いがする。


中から湿った畳が軋む音がした。

そして、ゆっくり、ゆっくりと戸が開く。


その間、新三は息をするのを忘れていた。

戸の向こうにいるのが人間なのか、

もう別の何かであるのか、

確かめる勇気などなかった。

ただ、引き返すという選択肢だけが、

音もなく足元から崩れ落ちていった。


「……薬を、くれ」


声は掠れ、喉の奥がひび割れたように乾いていた。

目はもう何も映さず、ただ乾いて白く濁っていた。


「人を殺められるほどの、強い薬を」


薄暗い土間から、ゆっくりと人影が浮かび上がった。


薬師だった。


八十を過ぎているか、それ以上か。

腰は折れ曲がったように丸く、背は低く潰れて見えた。

顔は深い皺に埋もれ、頬は骨だけのように落ちくぼんでいる。

左目の下には大きな黒子があり、右目は白く濁ってほとんど見えていないようだった。

着ている単衣は、元は紺だったのだろうが、今は汗と脂と黴で灰色に変色し、袖口はぼろぼろにほつれている。


薬師は無言で新三を見上げ、

長い間、ただじっと見つめた。

その視線は、まるで皮膚の下を這う虫の感触だった。


「なにゆえ、そのようなものを欲する」


声は低く、喉に溜まった痰を吐き出すような響きだった。


新三は唇の端を歪めた。

ひび割れた唇から、血が一筋滲んだ。


「犬一匹殺せねぇ世だぞ……」

「だったら、人が人を喰うほうが、よっぽど正直じゃねぇか」


薬師は動かなかった。

ただ、ゆっくりと首を傾げ、

濁った右目で新三の顔をなぞるように見た。


やがて薬師は背を向け、

土間の奥、黒ずんだ戸棚の方へ歩いた。

足音はなく、ただ畳が湿ってぺちゃぺちゃと鳴るだけだった。


小さな引き出しを引くと、木が湿気でねっとりと軋んだ。

中から取り出したのは、掌に収まるほどの小さな紙包み。

和紙ではなく粗い唐紙で巻かれ、端は黒ずんでいた。


薬師はそれを節くれ立った長い指でつまみ、

新三の方へ差し出した。


「……異国より流れ着いたものだ」

「決して、人に使うなと、“あの方”から固く言われておる」


その「あの方」という言葉が落ちた瞬間、

部屋の空気が一瞬、重く沈んだまま、戻らなかった。

行灯の灯りが、ぱちりと音を立てて小さく縮んだ。


包みを受け取った瞬間、指先に冷たい感触が伝わった。


胸の奥が、ひくりと痙攣した。

喉が鳴り、唾液が苦く滲む。

それでも手は離れず、

むしろその小さな重みを確かめるように、

無意識に指に力がこもっていた。


紙越しでも、何か油っぽく、動物の脂のようなぬめりが残る。

重さはほとんどないのに、なぜか掌の中心がずしりと沈むような錯覚があった。


新三は無言でそれを懐に押し込み、

薬師の顔をもう見なかった。


戸を開けると、外の冷たい湿気が顔にぶつかった。

背後で、戸がゆっくり閉まる。

まるで生き物の大きな口が静かに閉じるような、湿った音がした。


新三は振り返らなかった。


懐の中の小さな包みが、歩くたびに微かに擦れ、

体温を奪うように冷たく、

そして、かすかに、かすかに脈打っているような気がした。


その背中には、

もう、どんな場所も、どんな人間も、

影すら残っていなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ