同じ釜の飯
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
――飢えより先に壊れたもの。
生類憐みの令が最も苛烈に敷かれていた頃、
江戸の町は、表向きは静かだった。
だが、その静けさは、息を殺したような、張り詰めた静けさだった。
長屋の路地は、夜になると犬の気配で埋まる。
痩せこけた野良犬、番犬崩れの犬、どこかの商家で飼われていたはずなのに捨てられた犬。
それらが群れをなし、濡れた土の上を這うように歩き回る。
時折、喉の奥から低く濁った声が響き、
どこかの障子が小さく震える音がする。
犬に触れれば吟味送り。
石を投げれば島送り。
蹴れば獄門。
殴れば死罪……
その裁きに、基準はない。
あるのは、
役人の気分と密告者の声、
そして、運だけ。
棒を手に持つことすら命取りになりかねない。
だから人は、犬が吠えても、唸っても、
ただ目を伏せて、肩を縮めて通り過ぎるしかなかった。
犬の糞が路地に転がっていても、
誰も掃くことは許されなかった。
臭いが染みつき、雨が降るたびに腐臭が立ち上る。
長屋の奥、路地の突き当たりには、粗末な板と藁で囲っただけの犬小屋が並んでいた。
寺社近くや目立つ辻には瓦を葺き、柱に彫り物まで施された立派な小屋も確かにあったが、
町人地のほとんどの場所では、人の住む家よりはましに見える程度の粗末なものが大半だった。
その前に、ぼろ布をまとった子供がしゃがみ込んでいる。
手には、小さな握り飯。
それを、黙って犬の鼻先に差し出す。
犬が食べ終わるまで、じっと待つ。
食べ残しがあれば、それを拾って自分の口に運ぶ。
そんな光景が、あちこちで見られた。
飢えと屈辱に慣れていくしかなかった町人たちの中に、
かつては、同じ長屋で笑い合っていた二人の男がいた。
新三と文吉――
彼らが暮らしていた長屋は、
神田の裏手にひっそりと建つ、雨漏りの激しい借家だった。
屋根板の隙間から、ぽたぽたと落ちる水滴が、
夜通し畳を叩く。
冬は隙間風が骨まで刺さり、
夏は湿気と汗と黴の匂いで息が詰まる。
それでも――
あの頃は、二人で笑っていた。
「犬みてぇな暮らしだな」
「それでも生きてりゃ上等じゃねぇか」
酒があれば徳利を分け合い、
飯が一膳の夜は、箸先の動きで取り分を決めた。
負けた方が我慢する。
そんな日々だった。
だが世が変わった。
仕事は減り、
日雇いの現場は半分以下になり、
残った仕事も、役人の目が光るようになった。
「生類お憐れみの御趣意」として、
犬小屋の扶持米や維持の費用を、強制的に巻き上げられる。
米を納めさせられ、銭を差し出させられ、
そして何より、
「犬に逆らう者は、人としての資格なし」と、
役人たちは平然と言い放った。
文吉は変わった。
最初は、怖かったのだ。
近所の犬に会えば、腰を低くして頭を下げる。
役人が通りかかれば、すぐに土下座の姿勢。
小商いを覚え、犬の餌になる煮干しや飯粒を安く仕入れては、
それを犬の群れにばらまきながら、
「ほれ、腹が減ってるだろうに」と笑うようになった。
「……生き延びるしかねぇだろ」
それが、文吉の口癖になった。
新三は、ついていけなかった。
「人より犬が上の世なんざ、おかしい」
「慈悲? こんなもんはただの押し付けじゃねぇか」
不満は、腹の底で澱のように溜まり、
やがて、黒ずんだ妬みへと変わっていった。
ある冬の夜のこと。
新三は、空腹に耐えきれず、文吉の長屋の戸を叩いた。
障子越しに、文吉の気配が動く。
しばらくして、戸が細く開いた。
「……入れよ」
文吉の声は低く、どこか疲れていた。
土間に上がると、囲炉裏の火が弱く揺れている。
その火の傍らに、小さな鍋が置かれていた。
湯気が立ち、かすかに味噌の匂いがする。
文吉は無言で椀に味噌汁をよそい、
握り飯を一つ、新三の前に置いた。
新三は、震える手でそれを取る。
飯粒は冷たく、
煮干しの頭が一つ、沈んでいるだけの薄い味噌汁。
それでも、喉の奥まで染みるような味だった。
「……ありがてぇ」
声が震えた。
文吉は目を合わせず、ただ火を眺めていた。
その瞬間、新三の中で、言葉にできない何かが、ぐちゃりと潰れた。
惨めさ。
ありがたさ。
そして、底知れぬ憎しみ。
同じ飯を食い、同じ酒を飲み、
同じ長屋で笑い合っていた男が、
今、犬のために頭を下げ、
犬の餌を優先して生きている。
その事実が、
新三の胸を、焼くように、容赦なく抉っていった。
外では、犬の遠吠えが響いている。
長く、低く、どこまでも虚しく。
新三は、椀を握りしめたまま、
目を閉じた。
その夜から、彼の瞳の奥に、
何か黒いものが住み着いた。
この世で最も残酷なものは、
飢えでも、寒さでも、
役人の目でもない。
それは――
かつて同じ釜の飯を食った相手が、
自分よりも犬を優先するようになったときに残る、
どうしようもない、底なしの孤独だった……
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




