静かな夜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
桜は家宣の胸に頬を埋めたまま、
すでに浅い寝息を立てていた。
汗ばんだ肌に絡む髪が、
部屋の空気にほのかな甘い匂いを残している。
畳には、二人の体温がまだ染みついていた。
柔らかく湿った感触が足の裏に伝わり、
この静けさが現実であることを、家宣にだけ静かに教えている。
障子は薄く、
月の光がぼんやりと差し込み、
部屋を淡い青白さで満たしていた。
外からは、遠くで蛙の鳴き声が聞こえる。
川の匂いを含んだ夜気が、
障子の隙間から忍び込むように流れ込んできた。
この腕の中にいる限り――
外の世界がどれほど歪んでいようと、
このぬくもりだけは守れる。
そんな思いが、
眠る桜の重みとともに、胸の奥に沈んでいく。
家宣の耳元で、
桜の寝息は穏やかなリズムを刻んでいた。
だが、その温もりはどこか心許なく、
胸の奥で、指の隙間からこぼれ落ちていくように、残っていた。
けれど、障子の向こう側には、
確かに夜の気配があった。
江戸の町は、人の声を潜め、
重く湿った闇に包まれている。
路地の奥を巡る夜回りの提灯が揺れるたび、
その灯りが障子越しに滲み、
部屋の壁には歪んだ影が走った。
家宣はまだ知らない。
この静かな幸福のすぐ外側で、
何かが、ゆっくりと形を変え始めていることを。
桜もまた、
そのぬくもりに身を委ねたまま、
眠りの底で、理由のわからない不安を、夢に滲ませていた。
――その頃。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




