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理性が溶けた夜

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

夜の帳が降りると、世界は一変した。

昼の喧騒が嘘のように遠のき、音のない静けさだけが畳の上に滲み込む。

それは風さえ息を潜め、月明かりだけが淡く庭を照らしていた。


桜は畳に座り込み、膝を抱えたまま動けずにいた。

一日中、家宣のことを考えていた――否、考えずにはいられなかった。


昨夜の唇の感触が、身体に刻み込まれている。

思考が追いつくより先に、熱だけがじわりと広がる。

唇に触れただけのはずなのに、身体の芯が火照り、着物の内側に熱がこもっていく。


息が浅くなる。

胸が苦しい。


「考えるな」


そう言い聞かせるほど、逆に思い出してしまう。

あの優しい唇の温もり。

耳元で囁かれたような、幻の声。


逃げ場のないこの静けさが、感情を閉じ込め、決して逃がさない。

桜の頰は知らず知らずのうちに赤らみ、心臓の音が部屋に響くほど大きくなっていく。



一方、家宣もまた、闇を切り裂くように長屋へ向かっていた。

鼓動は抑えきれず、昨夜は理性で止めたはずなのに、


――これ以上進めば戻れぬ。


そう分かっていながら、足は止まらない。

自分の理性が、すでに綻び始めていることを、誰よりも悟っていた。


桜の笑顔が脳裏に浮かぶ。

そして胸が甘く疼く。

この想いが、これほどまでに強いものだったとは。



桜は部屋に留まっていられず、迎えを待つことをやめて外へ出た。

長屋近くの路地で、月を見上げて立ち尽くす。


理由は分からない。

ただ、心がざわつき、じっとしていられなかった。


月明かりに照らされた桜の姿は、儚い花のように美しく、指先がかすかに震えていた。


家宣が角を曲がった瞬間、その姿が目に入る。

驚きは一瞬で、耐え難い愛おしさへと変わった。


――こんなにも、彼女が愛しい。


何も言わず、桜の手を取る。

強く引き寄せ、抱きしめる。


昨夜よりも深く、逃がさない口付け。

呼吸が絡み合い、身体は自然に密着し、月明かりの下で二人は溶け合うようだった。


桜の小さな吐息が、家宣の心をさらに溶かす。


気づけば桜は壁際に追い込まれ、家宣の唇が首元、頰、耳元へと触れるたび、理性が削られていく。


越えてはならないと思うほど、口付けは深まり、

桜が思わず、家宣の衣を掴んだ。


その瞬間、理性は限界を迎えた。


家宣は耳元で、必死に告げる。


「……そなたを、愛しておる……だが――

これ以上進めば戻れぬ……そなたを傷つけてしまうやもしれぬ……」


声は震え、普段の冷静さが崩れるほど、想いが溢れていた。


桜は、安心と不満と欲が入り混じった涙を浮かべ、震えながら応える。


「……家宣様となら……戻れなくても……かまいません……」


その言葉は、頰を伝う涙とともに、あまりにも無防備で愛おしかった。

家宣の胸を、鋭く、甘く射抜く。


家宣の瞳に、はっきりとした決意が宿る。


「……次は、止めぬ。

次は、そなたのすべてを愛でる」


その約束のような言葉に、桜の心は甘く溶け、二人は赤らんだまま、しばし見つめ合った。


強く抱きしめ合い、欲情の余韻だけを残して、ゆっくりと離れた。

離れた後も、互いの温もりは胸に残り、甘い疼きとなって消えなかった。


今夜は、越えなかった。


けれど――


もう、越えない選択肢は、残されていなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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