指一本分の恋
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
月はまだ高く、夜は終わる気配を見せていなかった。
それなのに、二人の間だけが、静かに、越えてはいけないところへ近づいていた。
家宣の指が、桜の袖の端に触れたまま、動かない。
布越しに伝わる体温が、桜の腕をじわりと熱くする。
触れているのは、指一本分ほどの距離。
それなのに、桜の身体はまるで全身がその一点に集まっているように感じた。
袖の裏側で、肌が熱を持ち始めているのが、自分でもわかる。
息を吸うたび、その熱が胸まで広がり、喉の奥までせり上がってくる。
桜は息を止め、そっと目を伏せた。
まぶたの裏に浮かぶのは、家宣の顔。
低く震える声。
優しく細まる瞳。
朝と同じはずなのに、今はもっと深い色を帯びた視線。
そのすべてが、桜の胸を締めつけて離さなかった。
吐く息が熱を含み、唇の端がかすかに震える。
心臓の音が耳元でどくどくと鳴り、思考が追いつかなくなる。
家宣もまた、指を動かせずにいた。
触れた布の柔らかさ。
その下に隠れた桜の肌の温もり。
あと少し、指を滑らせてしまえば——
その先を想像しただけで、喉の奥が熱くなり、理性が軋む。
呼吸が浅くなり、胸の奥で抑えていたものが、静かに溢れ出しそうだった。
「……桜殿」
名を呼ぶ声は、ほとんど息だった。
呼ぶだけで胸が苦しくなる。
近づきたい衝動が、何度も押し寄せる。
それでも、触れた指はそれ以上進まない。
指先が、布に食い込むように小さく震えている。
桜は、ゆっくりと顔を上げた。
すぐそこに、家宣の瞳がある。
距離は、もう指一本分もない。
月明かりがその輪郭をやわらかく縁取り、瞳の奥に小さな光を宿している。
その光が桜の瞳にも映り込み、互いの視線の中で揺れ合った。
「家宣様……」
声は震え、言葉の途中で消える。
代わりに、胸の鼓動が大きくなりすぎて耳の奥で響く。
その鼓動が、家宣のものと重なっている気がした。
まるで二人の鼓動が、同じ速さで空気を震わせているかのように。
家宣の指が、ゆっくりと袖から離れていく。
その瞬間、桜の胸がきゅっと痛んだ。
離してほしくない。
でも、引き止める言葉が見つからない。
桜は無意識のうちに、自分の袖をぎゅっと握っていた。
布に皺が寄り、指先に力がこもる。
離れてほしくない——
その想いだけが、はっきりと身体に残っていた。
家宣は視線を桜の髪へ移す。
月の光を受け、簪が淡く輝いている。
小さな花が、桜の呼吸に合わせて微かに揺れるたび、胸が締めつけられた。
今朝と同じ簪が、今夜もそこにある。
その事実が、甘く、痛く、胸を熱くする。
「この簪……今も、君の一部になっている」
低く掠れた声。
それは問いではなく、ただの確認だった。
桜は小さく頷き、簪にそっと指を添える。
「はい……。
今日も、ずっと……家宣様を、思っていました」
言葉にした途端、頰が熱を帯び、視界が滲んだ。
恥ずかしさと嬉しさと不安が絡まり、胸がいっぱいになる。
溢れそうになる涙をこらえ、桜は目を伏せる。
家宣の瞳が、わずかに揺れた。
喜びと切なさが、同時に滲んでいる。
彼は静かに息を吐き、
もう一度だけ、桜の袖に指を重ねた。
今度は布越しではなく、指先が桜の指の甲に触れる。
ほんの一瞬。
その一瞬で二人の体温が溶け合った。
桜の指がびくりと震え、
家宣の指も同じように揺れた。
息が止まる。
伝わってくる震えが、胸の奥まで響く。
家宣は、すぐに指を離した。
離れた瞬間、また胸がきゅっと締めつけられる。
彼は視線を落とし、静かに告げる。
「……今宵は、これ以上は……いけない」
その言葉の裏に、抑えきれない衝動があることを、桜も感じ取っていた。
だからこそ、胸が甘く痛む。
桜は小さく頷き、目を伏せる。
「……はい……。
今宵は、ここまでで……」
声は震えていた。
それでも、逃げないと決めた声だった。
家宣はもう一度だけ、桜を見つめる。
その視線は、言葉よりも深く、熱く、そして優しい。
「……今宵の月も、桜殿のように綺麗だ」
桜は顔を赤らめ、そっと俯いた。
「……また、今宵も……」
かすかな声で続ける。
「……今宵の続きを……」
その囁きに、家宣は一瞬、表情を歪める。
欲を押し殺すように、静かに息を整え、軽く頭を下げた。
そして、ゆっくりと踵を返す。
月の光を背に受け、背中が静かに遠ざかっていく。
桜は門の前で、その姿を見送った。
完全に路地に溶けてしまうまで、動けなかった。
胸に手を当てると、鼓動はまだ早い。
簪に触れた指先が、ほんのり温かい。
その温もりが、消えなければいい——
そう願わずにはいられなかった。
月の光が二人の頰をやさしく照らし、
甘く、切なく、
次の夜へと続く橋を、そっと架けていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




