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月夜に溶ける距離

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。


江戸の町に月が冴え渡る頃、家宣は桜の長屋へ向かっていた。


道中、夜風が袖を軽く揺らし、心を静かにくすぐる。

淡い月明かりが路地を照らすたび、今朝の記憶が鮮やかによみがえった。


簪のやわらかな輝き。

桜の震える指先。

そして、恥ずかしそうに浮かべた、あの微笑み。


思い出すだけで、胸の奥が甘く締めつけられる。

家宣は無意識に懐へ手を伸ばし、手紙の上からそっと指を重ねた。

紙の感触が、まるで桜の指先のように温かく感じられる。


――今夜、この想いを伝えられるだろうか。


歩く足取りは、気づかぬうちに少し速くなっていた。

月の光が、その静かな期待を包み込むように、足元を照らしている。


やがて長屋が見えてくる。

石畳に落ちる足音を抑えながら、門の前で立ち止まった。


ひとつ、深呼吸。


胸の奥で、想いが静かに、しかし確実に膨らんでいく。

今夜は――今朝よりも、もう一歩、近づけるのだろうか。


そっと門に手をかけ、控えめに声をかける。

声に出さずとも、心の中で何度も桜の名を呼んでいた。


その頃、桜は部屋の中で、窓から差し込む月の光を浴びていた。


朝の高鳴りは、まだ胸の奥に残ったままだ。

息を整えようとしても、心は少しも落ち着かない。


家宣の姿を思い浮かべるだけで、頰が熱くなる。

低く穏やかな声。

真っ直ぐで、優しい眼差し。


鏡に映る簪に、そっと視線を落とす。

指先で触れると、贈られた日の記憶が、やさしく胸を満たした。


外から聞こえた足音に、桜ははっと息を潜める。

胸の奥が、きゅっと鳴った。


静かに立ち上がり、門へと向かう。

心臓の音が耳に大きく響き、指先がわずかに震える。


――もし今、彼がそこにいたら。


そんな想像だけで、息が浅くなった。


扉が開いた瞬間、月の光が二人を包み込む。


家宣の視線が、自然と桜へ向かう。

夜の闇の中で、簪が淡く輝いていた。


「……桜殿」


低く響く声に、桜は小さく息を吸い、微笑む。


「家宣様……お待ちしておりました」


その一言が、二人の間に甘い静けさを落とした。


家宣の瞳が、簪を捉える。

桜の髪に挿されたそれは、月の光を受け、まるで二人の想いを映すかのように美しかった。


ますます胸が、締めつけられる……


桜はその視線に気づき、頰を赤らめながら、そっと簪に触れる。

家宣の存在を、こんなにも近くに感じるだけで、心が溶けそうになる。


月明かりが二人の影を長く伸ばし、世界が静かに切り取られた。


家宣は懐から手紙を取り出し、そっと桜へ差し出す。


「これを……君に」


紙の感触が、桜の指先に伝わる。

受け取った瞬間、その温もりが胸の奥まで広がった。


丁寧な筆跡を追うたび、言葉が心に染み込んでいく。

一字一句に込められた想いが、静かに胸を満たし、視界がにじむ。


家宣は、そんな桜の表情を、ただ優しく見守っていた。


月の下、二人はゆっくりと言葉を交わし、同じ時を共有する。

朝の余韻が、夜の始まりへと、やさしく溶けていった。


風に揺れた簪を、家宣の視線が追う。

その先で、指先が、ほんのわずかに触れ合う。


胸が、同時に、高鳴る。


残った温もりが、桜の肌に甘い震えを走らせる。

桜は視線を伏せ、恥ずかしげに微笑んだ。


家宣の胸にも、静かな喜びが広がっていく。

この小さな触れ合いが、二人の距離を確かに近づけている。


桜は手紙を胸に抱き、小さく息を吐いた。


「……この言葉、とても嬉しくて。胸が、いっぱいです」


家宣は静かに頷く。


「君の笑顔が、すべてだ」


その言葉が、月の光に溶け、甘い空気となって二人を包む。


視線が絡み合い、心がそっと近づく。

風が再び袖を揺らし、簪がかすかに輝く。


家宣の指が、桜の袖に触れる。

伝わる温もりに、桜の胸は高鳴りを抑えきれない。


この夜が、二人の距離をもう一歩近づける――


そんな予感を、月の光が静かに照らしていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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