表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/48

重なる鼓動

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

門の前で、二人は向かい合ったまま、言葉を失っていた。


朝の柔らかな光が、桜の頰を優しく照らし、熱を帯びた肌を隠しきれない。

桜は恥ずかしさに小さく唇を噛み、視線をわずかに落とした。

息を吸うたびに胸が苦しく、吐くたびに甘い震えが体の奥へと広がっていく。

家宣の視線を、こんなにも近くで感じるだけで、心が溶けてしまいそうだった。


家宣は、視線を外すことができずにいた。

まるで引き寄せられるように、桜を見つめ続けてしまう。


その瞳が、ゆっくりと彼女の髪へと移る。


そこに挿されているのは、自分が贈った淡い桜色の簪。

朝陽を受けてほのかにきらめき、黒髪に溶け込むように揺れている。


家宣の胸が、きゅんと強く締めつけられた。

あの簪が、彼女の日常にこんなにも自然に根付いている。

贈った日の記憶が鮮やかによみがえり、甘い喜びが胸いっぱいに満ちていく。


――触れたい。


ふと、衝動が湧き上がる。

だが抑えきれず、息が浅くなった。


桜は、その熱を帯びた視線に気づいた。

頰が一気に真っ赤になり、耳まで火照る。


慌てて指を上げ、簪の根元にそっと触れる。

守るように、確かめるように。


触れた瞬間、簪が小さく揺れ、光がきらりと跳ねた。


そのわずかな揺れが、家宣の瞳に映り、彼の息をさらに奪う。


(……見られている)


桜の胸が、どくりと鳴った。

それも、こんなにも優しく、温かな眼差しで。


恥ずかしさが込み上げ、逃げ出したくなる。

けれど同時に、嬉しさが溢れて、どうしても目を逸らせない。

指先の震えが止まらず、小さな吐息がこぼれた。


家宣の喉が、小さく鳴った。


ようやく、掠れた声が落ちる。


「……朝早くに来て、悪かった。

 支度の途中だったか?」


いつもより低く、甘く震える声。

その不器用さが、桜の胸をきゅっと締めつける。


家宣の瞳が、ほんのわずかに細まる。


それだけで、桜の心臓が大きく跳ねた。


桜は慌てて首を振り、涙がにじみそうになるのを堪えながら微笑む。


「いえ……。

 ちょうど、終わったところ、です……」


声は小さく、ほとんど息のようだった。


その答えに、家宣の表情がわずかに和らぐ。

それを見ただけで、桜の胸が熱く溶けていく。


二人の間には、まだ言葉よりも先に、熱が満ちている。

空気は重く、甘く、息苦しいほど濃密だった。


朝の風が、ふわりと袖を揺らす。

二人の着物の裾が、かすかに触れ合う。


その気配に、桜は息を飲んだ。

たったそれだけで、体の奥が熱くなる。


家宣も気づいたのか、視線を桜の袖口へ落とす。

布を握りしめる彼女の指を、そっと見つめる。


その仕草が、たまらなく愛おしい。


家宣の胸が、またきゅんと疼いた。


家宣はもう一度、桜の簪に目を向け、静かに――けれど心から告げる。


「……簪、挿してくれたのだな」


その一言が、桜の胸に甘く突き刺さった。

温かくて、切なくて、嬉しくて、言葉が出てこない。


桜は小さく頷き、震える声で答える。


「はい……。

 朝、これを挿すと……家宣様のことを、思い出して……」


そこまで言って、声が詰まった。


家宣の目が、ふっと見開かれる。

驚きと喜び、抑えきれない想いが、その瞳に揺れた。


桜の胸が、甘く溶ける。


家宣はそれ以上問いたださず、ただ柔らかな眼差しで言った。


「……それだけで、十分だ」


短い言葉なのに、胸がいっぱいになる。

桜の視界が、わずかに滲んだ。


風が通り抜け、二人の袖が、また軽く触れ合う。

その小さな感触に、桜は息を飲む。


家宣は懐にそっと手を当て、手紙の存在を確かめた。


――今は、まだ渡さない。


この甘い朝の時間を、もう少しだけ、二人だけのものにしたかった。


やがて、家宣が決意を込めたように口を開く。


「……今夜は、月がとても綺麗だそうだ」


桜の心臓が、どくん、と大きく鳴った。


「また……会っていただけますか?」


丁寧な言葉の奥に、抑えきれない切なさと欲がにじむ。


桜は、もう笑顔を隠せなかった。

嬉しさが溢れ、目元が潤む。


「……はい。

 今夜、必ず……お待ちしています」


その答えに、家宣の表情がわずかに崩れる。

安堵と喜びが混じった、あまりにも優しい顔。


それが愛おしくて、桜の胸が痛むほど切なくなった。


去り際に、もう一度だけ深く視線を交わす。


その瞬間、二人の胸が同時に、甘く、痛く締めつけられた。


家宣は軽く頭を下げ、ゆっくりと踵を返した。

朝の光を背に受けながら路地へ歩き出す背中を、桜は門の前で見送っている。


数歩、また数歩。

人の気配が増え、彼の姿が朝の町に溶けていく。


完全に見えなくなったそのとき、

桜はようやく胸に手を当てた。


指先に伝わるほど激しい鼓動に、思わず息を詰める。

そっと簪を押さえ、小さく息を整えた。


「……今夜……」


呟いた声は、朝の空気に溶けて消える。

頰が熱くなり、視界が滲んだ。

こぼれた涙が一滴、指先を濡らす。


朝の光が、桜の微笑む横顔をやわらかく包み込み、

今夜への期待を、甘く、胸いっぱいに膨らませていった。



路地を進む家宣は、ふと歩調を落とした。


無意識のうちに懐へ手を伸ばし、指先で手紙の感触を確かめる。

桜が簪を挿していた姿が、どうしても頭から離れなかった。


あの仕草。

あの視線。

あの、震える指先。


朝の風が頰を撫でる。

どこかに、まだ彼女の匂いが残っているような気がして、胸がふわりと浮ついた。


今夜、月の下で、何を話そう。

何を、感じよう。


理性で抑えようとしても、想いは抑えきれない。

その甘い予感が、体の奥を静かに温めていく。



長屋の戸が、静かに閉まる。


桜は部屋に戻り、鏡の前に立った。

映った頰はまだ赤く、瞳はわずかに潤んでいる。


簪にそっと触れる。

それだけで、朝の出来事が鮮やかによみがえった。


家宣の声が、耳の奥に残っている。

その余韻が、胸の奥を甘くくすぐる。


稽古の支度は整っているのに、足が動かない。

今日一日、この高鳴りを誰にも気づかれないようにしなければならないのに。


それでも――

心の奥で、今夜への期待が、静かに、確かに膨らんでいた。


月が、二人の想いを優しく照らす夜に、

何が起きるのだろうか。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ