文が導く逢瀬
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
朝の柔らかな光が、江戸の町に優しく差し込み始めた。
家宣は書斎の机で目を覚ました――いや、ほとんど眠れなかった夜の続きだ。
胸に残る桜の想いが、夢と現の境を曖昧にし、心臓の鼓動を少し速くさせていた。
瞼を擦りながら、昨夜の月の光を思い出す。
あの光が、桜の頰を照らすように柔らかかっただろうか。
想像するだけで、胸が甘く疼く。
家宣は、ゆっくりと起き上がり、夜着を脱いで普段着に着替えた。
帯を締め直し、髪を整える指が、ふと止まる。
櫛が髪を滑る感触が、桜の黒髪に触れる日を予感させるようで、頰がほんのり熱くなった。
昨夜書いた手紙を手に取り、懐にそっとしまった。
紙の感触が、彼女の指先のように温かく、優しく胸をくすぐる。
外の鳥のさえずりが、桜の笑い声のように聞こえて、心がふわりと浮ついた。
一方、桜の長屋では、同じ朝の光が薄い障子の向こうから部屋を優しく照らしている。
桜は布団から起き上がり、昨日の簪の感触をそっと確かめる。
家宣から贈られた桜の花を模した簪を、櫛箱から取り出し、鏡に向かって髪を結う。
簪をそっと挿す瞬間、鏡に映る自分の姿が、少し大人びて見えて、胸がざわつく。
風に揺れるたび、家宣の声がよみがえるようで、心が甘く溶ける。
今日、もし彼が来たら……。
そんな想像だけで、息が浅くなり、鏡の中の自分が少し照れたように微笑んでいる。
袖を直す手が、ふと震えて、昨日の茶屋での家宣の視線を思い出す。
あの瞬間、目が合ったときの甘い緊張感が、体に蘇る。
稽古に行く準備をしながらも、なぜか今日は長屋に留まっていたい気持ちが強い。
外へ出るのが、少しだけ惜しく感じる。
窓辺に立ち、外の空気を吸う。
朝の風が、昨夜の月の名残を運んでくるようだ。
家宣は門を出る前に、一度深呼吸をした。
手紙の言葉が頭に浮かぶ。
「あなたの温もりを、感じたい」
あの文が、今すぐ桜に会いたいという気持ちを強く導いているようで、胸の奥が熱くなる。
町へ向かう道中、朝の風が頰を撫で、路地の石畳が足音を優しく響かせる。
桜の笑顔を思うだけで、足取りが軽くなり、心がふわりと浮つく。
桜のうなじに触れる日が、近い未来に待っているような予感がする。
理性で抑えても、想いは抑えきれない――そんな甘い疼きが、体を優しく包む。
道端の花が揺れるのを見て、桜の簪を想像し、思わず微笑む。
江戸の賑わいが、今日はすべて桜のための背景のように感じられる。
一方、桜は着物を羽織り、袖を整えながら窓辺に立っていた。
外の空気が、静かに部屋に入ってくる。
家宣の筆跡が、心に刻まれている。
「君の声をもっと聞いていたい」
その言葉が、胸を熱くし、息を漏らす。
ふと鏡に映る自分を見る。
頰がほんのり赤く、目が輝いている。
もし今、彼が来てくれたら……。
そんな思いが、甘い疼きを呼び起こす。
触れ合う瞬間が、すぐそこに迫っている気がして、胸が高鳴り、足元が少しふらつく。
長屋の戸を開けようとしたそのとき、
かすかな足音が聞こえた気がした。
桜は息を潜め、耳を澄ます。
心臓の音が、急に大きくなる。
家宣の足音が、桜の長屋に近づいていた。
門の前で、家宣は立ち止まった。
手を懐にやり、手紙の感触を確かめる。
指先がわずかに震える。
深呼吸を一つして、意を決するように門に手をかけた。
桜は部屋の中で、かすかな予感に気づき、身を固くする。
戸の向こうで、誰かが立っている気配を感じる。
胸が、きゅっと締めつけられる。
朝の静けさの中で、二人の鼓動だけが、同じ速さで重なろうとしていた。
家宣の指が、門の木目に触れる。
ゆっくりと、でも確実に、押し開く。
桜は思わず唇を噛みしめた。
息を止めて、戸の方を見つめる。
まぶたが震え、頰が熱くなる。
次の瞬間――
戸が開き、
朝の光の中に、家宣の姿が現れた。
二人の視線が、
まっすぐに、
絡み合う。
桜の瞳が大きく見開かれ、
家宣の息が、一瞬止まる。
「……桜」
家宣の声は、低く、震えていた。
桜の唇が、わずかに開く。
言葉にならない吐息が、漏れる。
「……家宣様……」
その瞬間、
二人の間にあった距離が、
ゆっくりと、溶けるように縮まっていく。
朝の光が、
二人の頰を優しく照らし、
甘く、切なく、
新しい始まりをそっと祝福しているようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




