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文に秘めた衝動

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

家宣はそっと目を閉じ、手紙を胸に当てたまま、長い間、動かずにいた。

月の光が障子越しに部屋を優しく照らし、二人の想いを静かに繋いでいるようだった。

心臓の鼓動が、手紙の紙面を通じて伝わってくるかのように、温かく、甘い余韻が体中を巡る。

あの桜の筆跡が、まるで彼女の指先のぬくもりみたいに、胸をくすぐる。

紙の端が少しだけ擦れて毛羽立っているところに触れると、彼女が何度も折り直したのかもしれないと思うだけで、胸がきゅっと締まる。


どれだけ時間が経っただろう。

炭火がぱちりと小さく音を立て、家宣はゆっくりと目を開けた。

瞼の裏に、桜の笑顔がまだ鮮やかに残っていて、思わず息を漏らした。


手紙を机に戻し、今度は自分の方から筆を取る。

墨を磨る音が、静かな部屋に響く中、家宣の指が少し震えた。

筆先を紙に下ろす前に、一度だけ、深く息を吸った。

胸が熱くて、言葉が溢れそうになるのに、どこかで抑えようとする自分がいる。


「桜殿」


そう書いて、止まる。


……いや、まだ早い。

彼女の名前を呼ぶだけで、心が溶けそうになる。

筆を置き、もう一度、手紙の最後の行に目を落とす。


「もう、戻れません」


その言葉が、胸の奥で静かに響き続ける。

桜がこれを書いたとき、どんな顔をしていたのだろう。

頰を赤らめて、筆を握る手が少し震えていたのか。

それとも、決意を込めて、静かに微笑んでいたのか。

もしかしたら、書きながら一度、簪に触れて、深呼吸をしたのかもしれない。


想像するだけで、家宣の喉が熱くなった。

彼女の想いが、この一文に凝縮されていると思うと、胸がきゅんと締めつけられ、息が浅くなる。


家宣の指が、無意識に自分の唇に触れる。

昨日の、桜の唇が菓子をそっと噛んだ瞬間を思い出す。

あの控えめで、でも甘さを味わうようにゆっくり動いた唇。

彼女の瞳が少し伏せられて、長い睫毛が影を落とし、頰がほんのり染まっていた。

茶屋の薄暗い灯りの中で、彼女が小さく息を吐いたとき、肩がわずかに揺れたことまで、鮮やかに蘇る。


心の中で、彼女の名前を繰り返すだけで、甘い疼きが全身に広がる。


「……桜」


今度は、声に出さずに、心の中でだけ呼んだ。

それでも、喉の奥が熱くなり、息が浅くなる。

彼女の声が、耳元で囁くように蘇る。

あの柔らかな笑い声、恥ずかしげに視線を逸らす仕草、

袖を掴んで笑ったときの、指先の小さな震え。

すべてが、愛おしくて、切なくて、たまらない。


筆を再び手に取り、今度は迷わず書き始めた。

言葉が、自然と溢れ出る。


ーーーー


桜殿


お手紙、確かに受け取りました。

一字一句、胸に刻むように読みました。

あなたが簪を挿して稽古に出たという言葉を読み、私は今、この部屋で、あなたの姿を想像しています。

黒髪に優しく簪を差し込み、鏡に向かって少し照れたように微笑むあなた。

歩くたび、簪が風に揺れて、私の声がよみがえるという言葉。

それが、私の声でもあるのだと思うと、胸が、痛いほどに熱くなります。


あなたが「戻れません」と書いたように、私も、もう戻れません。

この想いは、日ごとに強くなり、抑えようとしても、抑えきれなくなっています。

あなたの笑顔が、夢にまで現れて、目覚めると胸がざわつくのです。

昨日の茶屋で、あなたが菓子を小さく噛んだ瞬間を思い出すだけで、

今ここにいて、あなたのそばにいたいという衝動が抑えられません。


次にお会いできる日を、指折り数えて待っています。


その日が来たら、もっと近くで、あなたの目を見て話したい。


あなたの声をもっと聞きたい。

あなたの温もりを、感じたい。


家宣


ーーーー


書き終えた手紙を、丁寧に折りたたむ。

折り目が、桜の手紙と同じように、少しだけ強く押される。

その感触が、彼女の指先と重なるようで、家宣は小さく息を吐いた。

胸が満ちて、甘い疼きが体を包む。

彼女の想いが、自分の想いと溶け合うような、そんな感覚。


今夜は、まだ届けない。

明日、きちんと会いに行って、自分の手で渡したい。

そう決めて、手紙を机の引き出しにしまった。

引き出しを閉める音が、静かな部屋に響く中、家宣の心はすでに、明日の桜の姿を追いかけていた。


家宣は立ち上がり、障子を開けて庭を見た。

月が、冴え渡っている。

その光の下で、桜も同じ月を見上げて、自分を思っているかもしれない。

想像するだけで、胸がきゅんとなる。

風がそっと庭の木を揺らし、葉ずれの音が聞こえる。

その音に、桜の着物の裾が擦れる音が重なるようで、

家宣は思わず目を細めた。


「……明日」


小さく呟いて、家宣はそっと障子を閉めた。

胸の奥で、甘く、静かに、新しい芽がまた一つ、伸び始めていた。

あの優しい想いが、二人を優しく結ぶ予感に、心が震える。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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