十五の春
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
舞台の板は、思っていたよりも冷たかった。
素足の裏に直接伝わる、ひやりとした木の感触。
十五になったばかりの桜は、灯りが入る前の薄暗い舞台裏で、静かに呼吸を整えた。
指先がわずかに震え、袖口の布が肌に擦れる音が、耳元で小さく響く。
まだ開いていない幕の向こうから、客席のざわめきがかすかに漏れてくる。
息を吸うたび、胸の奥が締めつけられるように熱くなる。
十五になった。
それは、一座の中では「子ども」とも「大人」とも言えぬ、
曖昧な年頃だった。
背は伸び、声は少し低くなり、髪は長く結い上げられるようになった。
けれど、心のどこかでは、まだあの夜の焚き火の温もりを求めている自分がいる。
母の名を初めて聞いた夜。
右治衛の妻が、静かに語ってくれた言葉。
「あなたは、春さんが命をかけて咲かせた花よ」
その言葉は、今も胸の奥に沈んでいる。
消えない痣のように、優しく、痛く、確かにある。
⸻
稽古は、以前よりも厳しくなっていた。
振りを覚えるだけでは足りない。
動きの意味、間の取り方、視線の置き所。
右治衛の声が、稽古場の土間に落ちる。
「舞は、形じゃない」
「見せるのは、技じゃなくて“生き方”だ」
桜は、何度も同じところで止められた。
「今の足、早い」
「扇、開くのが半拍遅い」
「気持ちが先に出てる」
以前なら、その一言で胸が縮んだ。
今は、違う。
「……もう一度、お願いします」
そう言って、桜は定位置に戻る。
汗が額を伝い、喉が渇く。
息が上がり、肺が熱くなる。
それでも、目は逸らさなかった。
右治衛の視線を、正面から受け止める。
その視線は、叱責でも、期待でもなく、ただ「見ている」だけだった。
かつて、転んだときも、立ち上がれなかったときも、
ただ黙って見続けていた視線。
その重さが、今は支えになっていた。
⸻
舞台に立つ回数も、増え始めていた。
前座ではなく、
一幕の流れを任されることもある。
薄紅の衣を纏い、胸元から覗く桜の印を、あえて隠さない。
布の下で、痣は静かに息づいている。
それは、母が命をかけて残した証。
隠せば、母の記憶まで隠してしまう気がしたから。
観客の視線は、以前よりも鋭い。
値踏みするような目もあれば、
期待を含んだものもある。
「……あの子、誰だ?」
「一座の娘らしい」
「痣のある……」
囁きは、今も消えない。
それでも、桜は目を伏せない。
視線を真正面から受け止め、舞う。
痣を見られることを、恐れなくなっていた。
それは、恥ずかしいものでも、呪いでもない。
ただ、桜が「生きてきた時間」そのものだった。
⸻
舞の最中。
太鼓の音に合わせ、身体が自然に動く。
数えなくても、間がわかる。
迷わず、次の一歩が出る。
扇が空を切り、袖が風を孕む。
息が上がり、汗が背を伝う。
それでも、足は止まらない。
観客のざわめきが、ふっと遠のいた。
――あ。
その瞬間、桜は気づく。
自分が今、
「見られている」ことを、恐れていない。
以前は、
間違えぬことばかりを考えていた。
転ばぬこと、叱られぬこと、置いていかれぬこと。
今は、
どう生きているように見せるかを考えている。
母の名を胸に、痣を背負い、
この舞台の上で、自分自身を生きている。
舞が終わる。
一拍の静寂。
そして、拍手が起こった。
大きくはない。
だが、確かに、向けられたものだった。
その音が、桜の胸に深く響く。
涙ではない。
涙よりも深い、静かな喜びだった。
⸻
舞台を降りたあと、
桜は衣の裾を整えながら、深く息を吐いた。
汗が冷え、肌がひんやりとする。
背中を伝う汗が、痣のあたりで少し熱く感じられた。
「……よかったよ」
年上の者が、そう言って、微かに笑う。
「前より、ずっと」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
完璧ではない。
まだ足りない。
それでも――
積み重ねてきた時間が、
確かに形になり始めている。
そう思えた。
⸻
夜。
川辺を歩きながら、桜は立ち止まる。
水面に揺れる灯り。
遠くで聞こえる三味線の音。
江戸は、今日も変わらぬ顔をしている。
だが、町の空気は、どこか張り詰めていた。
人の視線。
役人の足音。
犬の吠える声。
理由は、まだ、よくわからない。
それでも、
何かが、少しずつズレている。
桜は胸元に手を当てる。
痣のあたりが、布越しに温かい。
母の記憶が、そこに宿っている気がした。
――私は、どこへ行くのだろう。
舞を続けること。
生きること。
選び続けること。
十五の春は、
答えをくれないまま、静かに過ぎていく。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
もう、立ち止まらない。
あの夜、焚き火の前で選んだ道を、
今さら引き返すつもりはなかった。
その先に待つものが、
喜びであれ、痛みであれ。
桜は、前を向いたまま、歩いていく。
川の水音が、優しく寄り添うように響く。
夜風が、髪を撫でる。
胸の奥で、母の名が静かに息づく。
春。
その名を、桜は心の中で繰り返した。
涙は流れない。
ただ、静かな決意だけが、そこにあった。
十五の春は、
終わらない。
これから始まる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




