小さな触れ合い
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
一座の暮らしは相変わらず落ち着かず、祭と市を追って町を渡り歩いていた。
朝になれば荷を解き、
夜になればまた畳む。
その繰り返しの中で、桜はいつの間にか「そこにいる子」になっていた。
それは特別な出来事ではなく、一座にとっては当たり前の日常。
旅の合間に織り込まれる、小さな営みの積み重ね――
それが、この一座の毎日だった。
荷馬車が軋む音。
布の幕を張る手つき。
道具を磨き上げる所作。
すべてが、流れるように繰り返されていく。
朝霧の立つ頃、芸妓たちは井戸端で顔を洗い、簡単な化粧を施す。
冷たい水が頬を叩き、鏡に映る顔が少し赤らむ。
男たちは焚き火を起こし、湯を沸かす。
薪がパチパチと音を立て、煙が朝の空に細く昇る。
子どもたちは、その隙間で遊び、時には手伝いを強いられる。
だが、桜のように小さな者は、ただ見守られる存在だった。
ーーーー
ある朝、芸妓の一人が鏡の前で髪を結っていた。
櫛が引っかかり、舌打ちが一つ落ちる。
湿気の多い朝で、髪が言うことを聞かない。
指先が髪を梳き、湿った感触にため息をつく。
その周りでは、他の芸者たちが互いの帯を締め合い、軽い世間話を交わしている。
「昨日の客、しつこかったね」
「次はもっと稼がないと」
そんな声が飛び交う中、桜は身支度をする芸妓たちの邪魔にならぬよう、ぼんやりと座っていた。
膝を抱え、土埃の匂いがする地面に小さな手を置く。
「動くよ」
命令でも注意でもない、ただの一言。
直接言われたわけでもないのに、桜が顔を上げる。
すると、その芸妓は迷いなく、空いた手で桜の髪に触れた。
桜の髪は、結い直すほどの長さではない。
はねた毛を指でなぞり、耳にかけるだけ。
指先の温もりが、朝の冷たい空気に溶け込んでいく。
芸妓の爪が、軽く桜の頭皮を撫でる。
優しく、しかし確かな感触。
芸妓は自分の髪を整えながら、ちらりと桜を見て微笑んだ。
こうした小さな触れ合いは、一座の絆を無言で紡ぐ習慣だった。
それだけで、手はまた自分の髪へと戻っていく。
桜は何も言わず、されるがままにしている。
特別なことだとは思わなかった。
むしろ、一座の皆がそうするように、自然なことだった。
ーーーー
昼過ぎ、稽古の合間。
桜は人の行き来の邪魔にならぬよう、柱のそばに腰を下ろしている。
稽古場には土埃が舞い、拍子木の音が響く。
汗の匂いと、土の匂いが混じり合う。
芸者たちは汗を拭きながら、互いの芸を批評し合っていた。
「あの場面、タイミングがずれたね」
「次はもっと合わせよう」
夕陽の中で、そんな話し合いが続く。
桜は身を縮めたまま、その様子を眺めていた。
膝を抱え、柱の冷たい感触を背中に感じる。
稽古の合間、誰かが何気なく近くに腰を下ろす。
「ほら」
気づけば、饅頭が一つ差し出されている。
半分に割られた、端の欠けたものだった。
甘い香りが、汗ばんだ空気に混ざる。
理由はない。
名前も呼ばれない。
桜はそれを受け取り、両手で持って黙って食べた。
甘さが口に広がり、ぽろりと欠片が落ちる。
それを見て、誰かが笑う。
笑い声は伝染し、周囲の数人がくすくすと肩を震わせた。
「こぼしてるよ、桜」
名を呼ばれ、桜は顔を上げる。
呼ばれた、と思うより先に、身体が反応していた。
一座の皆が、桜の名前を自然に口にするようになっている。
それは、桜が「家族」の一部になった証だった。
ーーーー
夕方、稽古が一段落すると、桜はいつの間にか誰かの膝に乗せられていた。
膝の主は、疲れた体を休めながら、桜の背を軽く叩く。
重くも軽くもない扱いだ。
背中を叩くリズムが、桜の心臓の音と重なる。
周囲では、稽古の反省会が始まっている。
「あの場面、タイミングがずれたね」
「次はもっと合わせよう」
夕陽の中で、そんな話し合いが続く。
「はいはい、もう降りな」
そう言われると、すぐに床へ下ろされる。
名残を惜しまれることもない。
それでも、降ろされた場所は輪の外ではなかった。
いつも、誰かの隣に戻される。
ーーーー
夜、少し騒ぎすぎて、桜は叱られた。
走るな。
触るな。
邪魔をするな。
叱る声は、稽古の厳しさと同じく本気だ。
旅の安全を守るための、一座のルールだった。
声は強く、表情も厳しい。
桜は唇を噛み、俯く。
だが、仕事が終わり、火が起こされ、人が自然と集まり始めると――。
焚き火の炎が揺らめき、煙の匂いが広がる。
皆が疲れた体を寄せ合い、今日の出来事を語り合う。
「あの町の客、気前が良かった」
「次は雨が心配だね」
夜の静けさを埋める会話の中に、桜も混ざっていた。
追い払われることはない。
場所を与えられることもない。
ただ、そこにいてよかった。
一座の輪は、誰をも拒まない。
ーーーー
夕餉の支度が始まると、人の動きが少しだけ緩む。
火のそばに鍋が置かれ、器が並び、自然と輪ができる。
鍋からは湯気が立ち、簡単な煮物の香りが漂った。
材料は町で仕入れたもの――
干物や野菜、時には贅沢に肉片が入る日もある。
桜も、その中にいる。
特別に呼ばれたわけではない。
端に追いやられたわけでもない。
最初から、そこにいるのが当たり前のように。
「ほら、こっち」
誰かが空いた場所を指で示すと、桜は言われる前に腰を下ろした。
向けられる視線は優しく、時にはからかうようでもある。
ーーーー
配られた食事は、決して多くない。
旅の途中で、贅沢はできない。
分量は厳しく計算され、無駄は許されなかった。
それでも、桜の器に盛られたものは、いつの間にか他より少し多くなっている。
皆が、少しずつ自分の分を分ける習慣があった。
干し芋を半分に折り、大きい方が黙って桜の前に置かれる。
魚の身を箸で分け、骨の少ない方が桜の椀へ移される。
子どもを優先する、一座の暗黙のルールだ。
「いいの?」
桜がそう聞く前に、「ほら、早く食べな」と声が飛ぶ。
誰も、自分の皿が減ったことを気にしていない。
むしろ、桜の口が止まると「もういらないの?」と聞かれる。
皆が、桜の成長を静かに見守っていた。
桜は首を振り、また箸を動かす。
食べ終わるころには、腹だけでなく、身体の奥が少し温かくなっている。
それは食事だけでなく、人々の優しさによるものだった。
ーーーー
食後、火のそばで誰かが歌を口ずさむ。
別の誰かが、調子外れに囃し立てる。
歌は一座の持ち芸の一つだが、この時間はただの楽しみだった。
桜は、その間を行き来する。
膝を叩かれ、
袖を引かれ、
名前を呼ばれる。
「桜、こっち」
「桜、それ見せて」
「桜、笑うな、それ反則」
そのたびに足を止め、また別の声に呼ばれて動く。
忙しいのに、追い払われない。
うるさいのに、邪魔にされない。
いつの間にか、桜の周りには人が集まっていた。
桜を中心に、笑いが広がる。
ーーーー
誰かが桜を抱き上げると、「ずるい」と声が上がる。
すぐに降ろされ、今度は別の腕へ渡される。
抱き回されるのは、皆の愛情表現だった。
桜は理由を考えない。
なぜ、そうされるのか。
なぜ、自分なのか。
ただ、笑えば笑い返され、転べばすぐに手が伸びる。
一座の皆は、互いを支え合うのが当たり前だった。
ーーーー
夜が更け、それぞれが布にくるまる頃。
星空の下、風が冷たくなる。
桜は火のそばで丸くなった。
誰かが桜の肩に布をかける。
さらにもう一枚、別の誰かが足元に足す。
布は旅の必需品で、皆が共有するものだ。
「冷えるから」
それだけ言って、去っていく。
桜は目を閉じた。
戻る場所がある、とは思わない。
守られている、とも考えない。
ただ――。
ここにいていい、と言われたことはない。
それでも、誰も桜を輪の外に出さなかった。
置いていかれてはいなかった。
その事実だけが、まだ言葉にならない形で、胸の奥に静かに残る。
一座の日常は、そんな小さな積み重ねの中で続いていく。
その中で、桜は心と歳を少しずつ育てていた。
※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




