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置いていかれた記憶

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

右治衛夫妻が営んでいるのは、村を出たのち、身を寄せ合うように始めた、土地に縛られぬ芸妓一座だった。


祭や市のある町を渡り歩き、宴の夜に芸を見せ、夜明け前には荷をまとめる。

定まった家を持たぬ生き方は、逃げではなく、彼らが選び取った答えだった。

住処を持たずとも、火と布と人の輪だけは、決して欠かさなかった。


行き場を失った者。

噂に居場所を奪われた者。

戻る家を持たぬ者。


そうした人間を、理由を問わず受け入れ、名も過去も追わない。


それが、右治衛と妻が決めた、この一座の在り方だった。


桜は、決まった腕の中にいることが、ほとんどなかった。


朝には、誰かの胸に抱かれていて、

昼には、いつの間にか別の人の膝に移され、

気づけば、違う匂いの布に包まれて眠っていた。


泣き声が上がると、誰かがすぐに手を伸ばした。


名前を呼ばれ、

背を撫でられ、

小さな身体は、自然と人の輪の中に戻された。


それは、特別な世話ではなかった。


右治衛の妻でなくても、年嵩の芸者が同じように抱き、同じように声を落とした。


稽古の合間も、膝の上に乗せられたまま拍子木の音を聞いていることもあった。


桜は、まだ言葉を持たない。


ただ、人の気配が絶えぬ場所で、その小さな身体を預けるようにして生きていた。


桜が一座に連れられて旅に出て、まだ間もない頃のことだった。


昼間は、人の声と物音に包まれている。


荷車の軋む音、芸の稽古で鳴る拍子木、火を起こす匂い。


誰かが常にそばにいるから、桜は泣かなかった。


だが、夜になると、違った。


火が落とされ、幕が下ろされ、あたりが静まり返る。


昼間は賑わっていた空間が、嘘のように空洞になる。


その闇が来るのを、桜は、まだ言葉も持たぬ身体で知っていた。


夜になると、桜は必ず、右治衛の妻の袖を握って離さなかった。


眠っているはずなのに、指先だけは布を掴んでいる。


その力は弱々しく、それでも必死だった。


引き離そうとすると、びくりと身体が跳ねる。


小さな胸が大きく上下し、喉の奥で、くぐもった音が鳴る。


泣かない。

声は出さない。


けれどそれは、眠っているからではない。


――泣く前に、置いていかれる。


それを、身体が覚えてしまっていた。


寝息は浅く、ときおり小さく喉を鳴らす。


そのたびに、指先の力が、ほんのわずかに強くなる。


まるで、闇の中で、誰かの背を探しているかのように。


夢の中で、

何度も、

何度も、

誰かに手を離されているのだと、

それは見ている者にも、はっきりと伝わってきた。


「……大丈夫だよ」


右治衛の妻は、低く、静かな声でそう囁いた。


声を張らず、急がず、ただ、そこにいると伝えるように。


桜は目を開けぬまま、ほんのわずかに頷く。


その動きは、信じたいと願う者の、ぎりぎりの合図のようだった。


妻は、そのまま袖を引かれた姿勢で、動かなかった。


布越しに伝わる体温が、桜を現実につなぎ止めているのを、理解していたからだ。


焚き火の赤が、闇の中で揺れている。


その少し離れた場所で、右治衛は、黙ってその光景を見ていた。


小さな背中。


それを包む影。


そして、決して離れない指。


右治衛は、胸の奥に、鈍い痛みを覚えていた。


――この子は、

――一度、置いていかれている。


声を上げても、助けは来なかった夜。

泣くことさえ許されず、ただ冷えていった時間が、そこにあった。


右治衛は、それを言葉にせず、胸の奥で受け止めた。


それは、推測ではない。

事実として、身体に刻まれたものだった。


右治衛は、自分が「間に合わなかった」人間であることを、否定できなかった。


もし、あの夜。

もし、もう少し早く。

もし、弟の前に立ったのが、あの一度きりでなければ。


考えるたびに、答えのない後悔だけが、胸に沈む。


焚き火が、ぱちりと音を立てた途端、桜の指が、一瞬、強く布を掴む。


妻は何も言わず、ただ、そっと息を整えた。


守るということは、奪われたものを、取り戻すことではない。


失われたあとも、それでも、生きていていいと、夜を越えさせることだ。


右治衛は、そう思った。


――この子は、すでに一度、世界に捨てられている。


だが、二度目だけは――

起こさせない。


焚き火の向こうで、夜が深まっていく。


桜は、まだ眠っている。


袖を握ったまま、

離される夢を、何度も見ながら。


けれど、その指が掴んでいるものは、

もう闇ではなかった。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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