夜の向こう側
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
夜は、まだ終わっていない。
一人取り残された桜の泣き声は次第に掠れ、やがて声を出す力さえ失われていく。
冷えた土が小さな身体を冷やし、夜露が肌を濡らす。
泥にまみれた頬に、冷たい雫が落ち、頬を伝う。
誰も来ない。
助けもない。
――それでも、桜は死ねなかった。
生きているというより、生かされてしまっている。
小さな胸が、弱々しく上下する。
息は浅く、途切れ途切れ。
指先は泥に埋もれ、動くことすらできない。
夜が明けるまでの、その長さだけが、
この世で桜が初めて知った「時間」だったであろう。
闇の中で、母の温もりがまだ残っているような気がして、
桜は、ただ、待つことしかできなかった。
ーーーー
時同じその頃、右治衛は眠れずにいた。
左治衛の兄であり、かつては同じ村に暮らしていた寡黙な男である。
村を離れて久しい今も、その土地の匂いや人の癖は、身体の奥に染みついたままだった。
胸の奥に、理由のわからぬ不安が引っかかっている。
無意識のうちに、弟の家の方角を何度も見てしまう。
夜風が障子を震わせ、遠くで雷の残響が低く響く。
――嫌な予感ほど、当たるものだ。
そう思いながらも、動けずにいた。
動けば、何かを知ってしまう気がした。
妻もまた、隣で目を閉じているが、寝息は浅い。
二人は、言葉を交わさず、ただ同じ闇を見つめていた。
夜明けの空気は妙に冷たい。
懐かしさよりも先に、胸の奥に沈んだままの重たい記憶が、静かに目を覚ました。
ここは、右治衛が背を向けた場所だ。
嵐が去ったあとの村は、音を失ったように静まり返っていた。
屋根から滴る雨水の音だけが、間延びした時を刻んでいる。
誰かが川の方を見た。
その視線につられるように、人が集まり始める。
――理由は、誰も口にしない。
だが胸の奥に引っかかる不安だけが、皆を同じ場所へ向かわせていた。
翌朝、雨は嘘のように上がっていた。
濡れた地面に集まった村人たちの視線が一点に集まる。
そこにあったのは、泥にまみれた赤子だった。
か細い泣き声が途切れ途切れに空気を震わせ、
胸元には濁流に洗われてなお鮮やかな桜色の痣が浮かんでいる。
まるで血で描かれた花のように。
「……やはり、妖だ」
誰かが呟いた。
女たちは口元を押さえ、子を背に隠す。
男たちは腕を組み、一歩も近づかない。
泣き声は、確かに生きている証だった。
だがそれは同時に、面倒の始まりを告げる音でもあった。
拾えば責任が生まれる。
抱けば情が移る。
情が移れば、村に波風が立つ。
だから誰も動かなかった。
誰も抱き上げない。
誰も温めない。
誰も乳を含ませない。
――見殺しにする、という選択。
ただ一人、古老が低く言い放った。
「川に流せばよかったものを……」
その言葉に、誰も異を唱える者はいなかった。
赤子の泣き声は次第に弱まり、嗚咽のように変わっていく。
村人たちはそれを聞かぬふりをして背を向けた。
ーーーー
夜は、再び荒れた。
右治衛は、ほとんど眠れずにいた。
風の音が強まるたび、胸の奥がざわつく。
川の方角から、何かを呼ぶような気配がした。
理由は分からない。
だがこのまま朝を待ってしまえば、きっと取り返しのつかないことが起きる。
右治衛は黙って身支度を整えた。
妻もまた、何も言わず後に続く。
二人の足は、自然と川へ向かっていた。
雨が再び降り出し、足元が泥濘む。
懐中灯の灯が、濡れた道を細く照らす。
川辺に辿り着いたとき、赤子は草の影に放り出されるように横たわっていた。
泥にまみれ、泣く力も尽きかけた小さな体。
右治衛は、胸元に浮かぶ桜色の痣を見て息を呑む。
村で囁かれていた噂が、脳裏をよぎった。
――春が産んだ子には、花のような痣がある。
理由を確かめる必要はなかった。
理屈よりも先に、胸の奥で理解してしまったのだ。
これは、春の残した命だと。
右治衛の妻がそっと近づき、赤子を抱き上げる。
その瞬間、桜は弱々しく指を動かし、その衣の端を掴んだ。
離さぬように。
連れて行ってほしいと訴えるように。
夫妻は何も言わなかった。
言葉は、この夜には不要だった。
同じ家に生まれ、同じ村で育ちながら、弟とは違う道を選んだ右治衛。
弟の酒癖も、怒りも、弱さも、右治衛は誰よりも知っていた。
だからこそ、目を逸らさなかった。
春が嫁いできた頃、かつて一度だけ、右治衛は弟の前に立ったことがある。
理由も言い訳も求めず、ただ静かに言った。
――やめろ。
その一言が、春には忘れられなかった。
右治衛の妻もまた、何も尋ねなかった。
痣の理由も、村の噂も、赤子の行く末も。
問わず、決めつけず、ただ手だけを差し伸べた。
春が彼らの前でだけ息ができたのは、これまで耐えてきた日々も、胸にしまい込んだ傷も、何ひとつ説明しなくてよかったからだ。
その夜、右治衛と妻は、言葉を交わさなかった。
赤子の小さな身体を前にして、これは拾う命ではなく、引き受ける命なのだと、互いに同じ答えに辿り着いていた。
ここから先、この子は戻れない。
村へも、元の夜へも。
それでも、
それでもなお、
二人は手を離さないと決めた。
それは同情ではなく、選択だった。
――右治衛夫妻に抱かれ、熱を測られ、湯で体を拭われながら、桜は小さく身を震わせていた。
桜の意識は、もう深いところへ沈んでいる。
眠っているはずなのに、指先はきつく衣を掴んでいる。
離れようとすると、びくりと身を強張らせた。
しかし、春の温もりは、もうどこにもない。
だが失われたことを理解するには、まだ幼すぎた。
夜半、妻はそっと囁いた。
「……春さんは、最後まで、この子を離さなかった」
右治衛は答えなかった。
ただ、闇の向こうで流れる川の音を、黙って聞いている。
村は、何も変わらなかった。
だからこそ、その不在だけが異様に重かった。
それは呪いか、奇跡か。
誰にも答えはわからない。
ただ一つだけ確かなのは――
この夜、生き残ったこの命が、やがて多くの人間の運命を背負うことになるとは、まだ誰も、知る由もなかった。
※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




