表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/47

元禄宵華火

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

元禄十年、夏の夜。


江戸の大川沿いは、宵の刻を迎える前から熱気に満ちていた。

湿った風が川面を滑り、灯籠の橙色の火を揺らしながら、肌にねっとりと絡みつく。

両岸の屋台から漂う甘酒の発酵した甘い香りと、焼き団子の焦げた醤油の匂いが混じり合い、人いきれや川の生臭さを抱え込んで、息苦しいほどの夏の匂いを生んでいた。


人々は肩を寄せ合い、笑い声を上げ、足元では下駄が忙しなく鳴る。

そのざわめきが、ふいに沈んだ。


誰からともなく息が詰まり、無数の顔が空を仰いだ。

次の瞬間、夜空に最初の火の華が咲く。

赤と金が爆ぜ、尾を引いて砕け、やがて跡形もなく闇へと吸い込まれていった。

消えると知っているからこそ、人は無意識に手を伸ばし、その一瞬を見つめてしまう。


その喧騒の中心に、仮設の舞台が据えられていた。

板敷きの上、白布を背に立つ一人の女――桜。


薄紅の衣は湿気を含んで肌に張り付き、灯に照らされて、かすかに透けるように揺れている。

その姿だけが、夜の黒い海から切り取られたかのように浮かび上がり、周囲の熱気を拒むように静まり返っていた。


笛の音が、細く鋭く立つ。


その音に導かれるように、桜は一歩を踏み出す。

指先から生まれた動きが、腕へ、肩へと伝わり、やがて広がった袖が、重く空気を切った。


誰かに教えられたはずの型。

しかしその所作には、人の世の理からわずかに外れた、名づけようのない気配が滲んでいる。

衣の奥に隠されたものが、揺れるたび、見えてはならぬと訴えるように、かすかに震えた。


桜の胸の奥に、じわりと熱が滲み、静かなざわめきとなって広がる。


――見られてはいけない。


理由はわからない。

ただ、その感覚だけが、幼い頃から骨の髄まで染みついていた。

肌が粟立ち、背中に熱が走る。

汗が一筋、首筋を伝い落ちた。


観る者は息を詰め、言葉を失う。

美しいという言葉では足りない。

祝福されぬ美――そうとしか言いようのない違和感が、静かに心の底へ沈んでいく。


再び花火が弾け、白い光が舞台を染めた。

その一瞬、桜の首筋に浮かび上がった“痕”を、誰かが見た気がした。

薄い布越しに滲む、赤黒い影。


「……今の、見えたか」

「何がだ」

「いや……気のせいか」


ざわめきは風に溶け、次の爆音に呑み込まれる。

だが桜の鼓動だけが、耳元で激しく鳴り続けていた。


――見られたかもしれない。


その恐怖と、奇妙な安堵が、胸を締めつける。


桜は舞い続ける。

視線を伏せ、誰のものでもない闇の一点を見据えたまま。

汗が額を伝い、唇に塩辛い味が残る。

息は浅く、指先がかすかに震えた。

それでも、型だけは崩さない。


――そのときだった。


舞台の下、群衆の端。

人の流れからわずかに外れた場所に、一人の男が立っている。


姿勢に乱れはなく、喧騒の中にありながら、そこだけ空気が冷たく澄んでいた。

身なりは控えめだが、その目だけが異様なほど深く、静かに澄んでいる。

測るようでもあり、祈るようでもあり、飢えた獣のようにも見える視線。


桜は、なぜかその視線を肌で感じ取った。

顔を上げるつもりはない。

上げてはならないと、身体が先に理解している。

それでも――。


視線が絡みつく。

息が、わずかに遅れた。

逸らせば戻れると分かっていながら、逸らせば何かを永遠に失うと、心が先に悟っていた。


花火が弾け、遅れて轟音が届く。

歓声が重なり、すべてが遠ざかる中で、桜の意識には、その男の目だけが焼きついて離れなかった。


名も知らぬ相手。

声も知らぬ相手。

それでも――覚えられてしまった。

そう、確かに感じる。


やがて舞は終わり、桜は深く一礼すると、そのまま舞台袖へと下がった。

顔を伏せ、胸に残る熱と震えを押し殺す。


振り返ってはならない。

振り返れば、今夜という夜が、ただの一夜では終わらなくなる。


それでも、彼女は知っていた。

この夜が、花火のように儚く消えるものではないことを。


川面には、まだ光の残像が揺れている。

そして江戸の夏の空の下、誰にも祝福されぬ何かが、静かに芽吹き始めていた。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ