第7章:破滅の女神ー004ー
ここまで変わるものか。
マテオは冴闇宅に漂う雰囲気に驚きしかない。
前回はまだ他人同士が寄り添う固さがあった。
現在は、すっかり家庭として出来上がっている。
育児に追われた若い夫婦の生活が家の空気となっていた。
けれどマテオは漂う幸福感に複雑だ。
冴闇宅では、流花抜きでも確かに歩む日常が積み上がっている。仕方がないとはいえ、流花が疎外感を抱いてもおかしくない。
下で眺めているばかりで、実際に見ることに対し尻込みしていた奈薙が一目するなり「なんて、かわいいんだ」と迫ったら、悠羽の大泣きが立つなかの感想だ。
「要件はすでにお伝えした通りの内容でよろしいでしょうか」
ダイニングテーブルを挟んで座る夕夜へ、隣りに流花を置いたソフィーの確認だ。
母上はずいぶん手際がいい、と感心するマテオはベビーベッドの脇でおろおろする奈薙の横にいた。
陽乃がやって来て泣き喚く悠羽を抱っこした。あやせばたちまち泣き止み親指をしゃぶる悠羽を胸にする姿は、育児中の母そのものだ。
誰もが認める夕夜と陽乃が築いた家庭だった。
「はい。現状では、それが最善策かと思われます」
どんな時でも黒づくめの格好をした夕夜が答えている。
陽乃が悠羽を胸に抱いたまま席へ戻ってくればである。
「流花は、それでいいの? 本当の気持ちを教えて」
「やだなー、お姉ちゃん。流花は嬉しいくらいだよ。外国だからちょっと不安はあるけれど。マテオやアイラさんもいるし、ソフィーさんも信頼できる人だよ」
にこやかな流花に、マテオは少し胸が痛む。
ソフィーとは今朝が初対面だ。にも関わらず、もう信用できる人などと口にしなければならない。
それは姉妹のことを想ってなのか、はたまた自分の居場所はないと考えてか。
マテオは異国で姉妹から離れて暮らす流花を支えられるなんて思わない。でも気ぐらい遣おうと考える。
だけど、夕夜の言い草には我慢ならなかった。
「流花さんの言う通りです。自分としても陽乃さんだけに絞れたほうが、安全度はより高まります」
常に冷静でなければ命取りになる世界で生きてきたマテオだ。
この程度のことだ、この程度のことなのに頭へ一気に血が昇った。
「冴闇っ、なんだよ、その言い方は!」
「急に怒鳴って、どうしたんだ。守りの観点からしても人数が絞れたほうが間違いないじゃないか」
夕夜の言は、普段のマテオなら諒解するだろう。
言っていることは正しい、正しいのは解っている。
だが……。
なお喰い下がろうとするマテオに、止めに入るソフィーだ。
さらに横からも静かに届けられてきた。
「もういい、もういいんだよ、マテオ」
流花がさざ波すら立たない湖面を思わせる佇まいを見せてくる。
だからこそマテオは訊かずにいられない。
「いいのかよ、流花。それでっ」
返事は、こくりと首を落とす所作だった。
悠羽がむずかった。
胸のなかで赤ん坊となった末の妹を陽乃はなだめながらである。
「ねぇ、流花。お姉ちゃんと一緒には暮らせないの?」
まさに時間が止まるとした沈黙が訪れた。
ただ長くは続かない。
「やだなー、お姉ちゃん。流花だけ、より安全になろうとしている話しだよ。ほら、外国ならば、あいつらも追ってこないでしょ。それよりこの後、お姉ちゃんばっかり狙われるようにならないか、心配かな」
あはは、と流花が申し訳ないとばかり頭をかいた。
マテオは痛々しくて見ていられない。
加えて冴闇が「大丈夫です、陽乃さんには自分がいます」などと言ってくるから、苛立ちが抑えきれない。
つい前へ出かけたら、分厚く大きい手に肩を押さえられた。
「やめておけ。流花姉さんの気遣いが解らないマテオではないだろう」
止める奈薙に間違いはない。
だけどマテオの感情がほとばしる。
「でも、これはなんか違う気がしてならないんだ」
「あいつ、冴闇夕夜という男は人の心なんか持っていないと考えたほうがいい。陽乃姉さんたちが来て、人間らしい気配が少し出てくるようになった、ただそれだけのヤツだ」
淡々としたなかにも情の篤さが滲む奈薙の説得だ。
マテオは気を治めるしかない。
ただし陽乃は諦めきれないようだ。
「流花の意志は尊重したいけど……けど、私としては出来れば姉妹ずっといたい」
「お姉ちゃんは良くても、ね。それに冴闇のお兄さんだって流花まで守らなきゃいけないなんて大変だって」
流花は世の男性に限らず目にした者が卒倒しそうな美少女の笑みを浮かべた。
ソフィーだけならず、部屋の隅で立っていたアイラに、奈薙さえも見惚れてしまう。
夕夜は変わらずのほほんとしており、陽乃は目を伏せる。
マテオだけは内心で舌打ちし、悪態を吐いていた。バカヤロー、なに気取ってんだ、と。
突如、誰もの意識を返すつんざく声が挙がった。
あー、とは始まっては、へぇっえっええー、と赤ん坊が不快を感じた際に発するうめきだ。
陽乃に抱かれた悠羽が泣いている。
「ずいぶん大きな赤ちゃんなのね」
ソフィーの話題を変えようとした質問が、まさか自分に跳ね返ってくるなどまだ想像外のマテオであった。




