第八章 8/8
「あいつの言っていることは嘘だ」
ユリンは、叫んだつもりだったのだろうがもはや声を張り上げるだけの体力さえ残っていないようだった。
「人類の進化形が食人鬼だなんて嘘だ。なぜならあいつは本能で人を食べるんだろ?」
この国最強の兵士に今できたことは、攻撃でも、防御でもなく、ましてや逃亡ですらなかった。
「人間は、先祖が「動物」だった時代に獲得した能力を「本能」として区別した後の生物なんだ。その人間に「人を食べる」なんて本能は無いんだよ。食人鬼が人間の進化形なら同じくそんな本能があるはずがない。奴は、もっと原始的な生き物だった時代から人を食っていた筈だ」
その剣をまっすぐにリリエラームに向け続ける彼女にできたのは、ただその身を犠牲にして少しでも他の者の避難の時間を稼ぐことだけだったのだ。その人間を、リリエラームは憐れむように見た。
「あらあら。意外に賢いんですのね。そうですの。人間が私の祖先だなんて嘘。人間を食べていたのは私達に自我が生まれるよりずっと前からのことですの。ですから」
ユリンの左腕、肘から先が無かった。
骨の砕ける音がした。
裂けるほどに大きく開いた口が、噛み砕く音。
「私、食べている間はどうしテも自我を忘れテしまウんですノ。あア、美味しい。貴女、とッテも美味しい。どうしましょう。モット食べ……」
俺が目を伏せかけた瞬間。
どっ……と音がして、リリエラームが倒れた。
あちこち破れたスカートを翻し。蹴りを放ったのは、ティルミアだった。
「ユリンさん、逃げて!」
ユリンが部下に支えられながら後ずさる。
「ティルミアさん、気をつけて!」
「ミレナ。……催眠魔法か?」
「ええ。前回と同じ手です。これしか時間を稼ぐ方法が無くて。タケマサさ……」
ミレナの言葉が終わらないうちだった。
「だ、ダメ、ダメっ!」
がつ、がん、と嫌な音が二回して、ティルミアが俺のほうにすっ飛んできた。
慌てて受け止めようとして共倒れになる。俺の上に倒れこんだティルミアは額と鼻から血を流していた。
「ラインゲールさん、少しだけ足止めお願い! ……ごめんミレナさん!」
「全力でもそんなに持つと思わないでくれよ!」
「とっ、解きます!」
ミレナがティルミアに駆けつけると同時にラインゲールが風の壁を作った。
「はぁ、はぁ……ダメ、あいつの動き、さすがに人間じゃない。速すぎる。モノだと思ってちゃ当たらないし避けられる……。これじゃ手が出せないとしても多少防御ができるだけ解いてた方がマシかも」
ティルミアは、額の血を拭った。傷は浅い。だが焦燥感を下唇ににじませた。
リリエラームは、特に怒った様子もなくただにたりと笑いながら立っている。止まってはいるが、ラインゲールの風がどの程度効いているのか、怪しいものだった。
「タッ……タケマサ様! 申し上げます! 解いてくだせえ! もはや皆で飛びかかるしか……!」
「まだ避難してなかったのか! ここは我々軍が何とかする! 一般人はさっさと避難するんだ!」
街の、誰かの言葉。避難しろと兵士が追いやる向こうで、俺に対して懇願する声が聞こえる。
解こうにも解きようがないのだ。究極、俺が死ねば解けるが、制約魔法のおかげで誰も俺を殺せない。……誰も言い出さなかったが、自殺もできない。自分が対象でも殺人は殺人だった。
城ではミサコやアリサリネが文献を漁って食人鬼の撃退法を探していた。
「くそったれ……。なんか方法はないか。縄とか……網じゃダメか?」
「ダメだよ。あいつ、人間みたいに見えるけど口が肩幅より大きく開く。その上、歯でこの傷だよ!?」
そう言ってティルミアが見せた肩は血塗れだった。思わず顔をしかめる。深い傷が三本。肉を深く抉っている。
「……でもタケマサ君、一つ思いついたよ」
「な、何をだ」
苦しそうに笑いながらも、得意げに人差し指を立てるティルミア。
「制約魔法を解く方法。それも私だけね。あいつに私を殺させて、タケマサ君に生き返らせて貰うの」
「だめだ、ティルミア。言っただろ。死んでも制約魔法は解けないんだよ」
それができたら、破落戸どもだって同じことを考えつくだろう。蘇生は完璧じゃないとは言え、自分達の命を安く見る連中なら何でもするだろう。
だが、それはできない。制約魔法とは根本的には催眠魔法と同じで、無意識下に制約をかける。無意識の、記憶。
「……蘇生魔法というものは肉体の回復をした後、生前の記憶を書き戻すんだ。記憶を戻せば、かかっていた制約魔法だって元通りだ。制約魔法は記憶に書き込まれるからな。人間は記憶からは逃げられない。たとえ死んだって」
ティルミアはしかし、微笑んだ。
「だったら、逃れられる。解けるよ!」
「……は?」
ティルミアは、俺に耳打ちをした。
「なっ……」
ティルミアは胸ポケットから何か取り出した。……ビルトカード?
「チーちゃん? 見えてる? 私が殺られたらタケマサ君と私を城のホールに召喚して」
ティルミアは、それだけ言うとカードを俺に渡した。
「待て、ティルミア! 何を……」
「大丈夫。私、タケマサくんを信じてるから。じゃ、行ってくる! ちゃんと生き返らせてね!」
*
勝負は一瞬だった。
ティルミアは俺が止める間もなく、リリエラームに向かっていった。
そして今度は一歩も動かずに。いや、動けずに。
リリエラームの醜く開いた上顎と下顎が、ティルミアを挟み込んだ。
「ティルミア!!!」
俺はカードに怒鳴る。
「召喚だチグサ! ティルミアを戻せ!」
*
「何なの!? どういうことなの!?」
ティルミアは、かろうじて召喚が働く程度の時間だけ、この世にいることができた。
召喚が成功し城のホールへと場所を移したとき、既に息をしていなかった。
呼吸などできるわけがない。
首から胸を大きく抉られた、無残な姿。
「ティ……ティ……」
「蘇生をするぞ。ミサコ、アリサリネ、ディレム。手伝ってくれ」
「え? 今すぐに?」
「ああ、今ここでやる……!」
やる、しかない。
場所は選んでいられない。城内をさまよっている時間はない。このホールを蘇生場所に決める。
肉体の修復をアリサリネとディレムに頼み、俺はミサコと協力して急いで魔法陣を書き上げる。
「よし。ここからは俺一人でやる。何があっても邪魔はするなよ」
二回目だ。こいつの蘇生は。
今回も。
前回のことを思い出す。あの時と同じように。
いや、あの時と同じではダメだ。今の俺なら、術式の意味も深く理解しているし、どこをどう変えればどんな影響があるか、制御しきれる筈だ。
こいつとの旅は俺を成長させた。それを無駄にしてはならない。
詠唱が早口になりそうになるのを抑える。
今回はうっかり間違える訳にはいかない。絶対にだ。計算通りに、一字一句全てを、思い通りに。
詠唱を、終えた。
「ふぅ……」
「タケマサ! ちょっと待って。今の呪文だと……」
「いいんだ、アリサリネ。わかってる」
俺は、頷いてから手をティルミアの遺体にかざした。
「目を覚ませ、ティルミ……」
ドガァッ。
門扉が、吹っ飛んだ。
「こんにちわ。あらまぁ、こんなところに。さっきの子ですの。食べかけで逃げられちゃったですの」
俺は思わず前に飛び出していた。
蘇生は発動した。だが、まだティルミアの意識が戻っていない。
「……待て。そんなに腹が減ってるなら俺を食え」
「ダメですの。男なんて食べても美味しくないんですもの」
「いや、待て。それなら……」
「うるさいですの」
突き飛ばされたと意識する間もなく俺は吹っ飛ばされていた。たっぷり十メートル以上は飛んだのだろう。背中だか腰だかを階段に打ちつけて止まり、倒れる。動けなかった。身体がたぶん、壊れた。
俺を食べようとか殺そうとかしたわけではない。そんな意識すら無く、ただこの化け物は俺の向こうにあるティルミアの遺体に突進しただけ。本能……こいつの意識よりも奥にある、動物としての判断能力だけで。
戦闘態勢を取った兵士やユリンや事務所の連中が、守ろうと立ちはだかる。だがリリエラームの前で武器を構えても振り下ろすことができない。
「……ティルミア……逃げろ……」
リリエラームの大きく開けた口が、倒れているティルミアに迫った。食欲だけに身を任せた、理性を失った目。
だがその目が、伸びた足に潰された。
「どういう状況……? こいつ……何?」
起き上がった。ティルミアが、起きあがっていた。
目を押さえ、リリエラームがのけぞる。
「え、攻撃……された、ですの? なぜ……?」
俺は動かない腕でガッツポーズを作ろうとした。
「成功したな……」
あたりを見回したティルミアは、驚いていた。状況がわからないという顔。狙い通りだ。
リリエラームが、自身の目を潰されたことに気がついたのか、奇声に近い声を上げてティルミアに襲いかかる。絨毯ごと床が抉れるほどの衝撃。
だが次の瞬間。
ドム、と鈍い音がして、リリエラームの姿が消えた。ブオン、という空気を押しやる音が遅れて聞こえ、城の外にふっ飛ばされたのだとわかった。
同時にティルミアの姿も無い。
戦場は外に、と理解して俺も後を追おうとする。しかし足が折れているのか前に出したと思った足で自分が支えられず倒れかける。
「すまん、アリサリネ」
肩を支えるアリサリネは、俺に尋ねてきた。
「ティルミアさんの制約魔法が解けてる……タケマサ、あれは狙ってやったの?」
おうよ、と頷く。
「そうだ。あいつ自身の発案だがな。記憶を戻せば、制約魔法も戻る。だったら……制約魔法にかかる前の時点までしか、記憶を戻さなければいい。蘇生が不完全だと記憶が巻き戻る、蘇生魔法の難点を利用したんだ。制約魔法を発動した日より前、二週ほど前に記憶を戻した」
「呪文が間違っているように思えたから、止めようと思ったけど、そういうこと……。狙って記憶を完全には戻さなかったのね。そんなこと、考えたとしても実行に移すなんて……。危険すぎる」
「まあ何度も失敗してたからな。感覚で、呪文のどこをどのくらい変えれば、どのくらい記憶が戻らないかわかってきたんだよ」
一歩間違えると盗賊団の連中の時のように五歳児にまで戻ってしまう。だが、呪文の最後のほうを意識して少し変えれば、割合失う記憶は少なくて済む。あのお婆さんや、ルードとの戦闘後のティルミアのように。
加減が難しいが。
「制約魔法に……まさかこんな解き方があるなんてのう……」
ミサコの言葉に俺は親指を立てる。
アリサリネに支えられたまま門扉をくぐる。
歓声が広場を包んでいた。まるでスタジアムだ。人々の視線の中央に。
緑色の髪を振り乱したリリエラームがいた。
食人鬼対殺人鬼。
「お姉ちゃん、がんばれぇえええ!」
リリエラームは人間の背丈ほどの大きさに口を開き、ティルミアの姿など見えていないのではないかと思うほど、闇雲とさえ思うほど、激しく連続で噛みつきを放っていた。がちがちがちがち、と重い金属の塊がぶつかる音は、彼女の上と下の歯が衝突する音だ。
だがそれはティルミアに傷一つ負わせることはない。
傷は、負っているのはリリエラームだ。それがすぐにわからなかったのは、血が赤くはないからだと気がついた。濃い緑色の液体があたりに飛び散っているのが彼女の血なのかもしれない。
ティルミアの動きが止まった。それに反応したかのようにリリエラームの動きも止まる。
沈黙が二秒ほど。
とっ
軽い、音がした。一瞬のことだった。ティルミアの手刀が、リリエラームの頭部を貫いていた。その体を一瞬浮かせ、そしてだらりと垂れ下がった脚が地に接した、その音だった。
ぶしゅう、と何かが弾けたような音がして、体液を撒き散らし、リリエラームは絶命した。びくん、びくん、と手足が跳ねていたが、数分後、ピクリとも動かなくなった。
わああああああっ……と歓声が上がった。手を引き抜き、反対の手で乱れた髪を撫で付けるティルミア。
「殺した……!」
「殺したぞ……!!」
「殺してくれた!!!」
ティルミアはびっくりしたように、あたりをキョロキョロと見回した。自分がなぜこんなにも注目されているのかわからない、そういう表情だった。
「そりゃそうか。この街に潜入した後の記憶がたぶん無いんだろう。そりゃ驚くわな」
苦笑しながら、ティルミアに近づいていく。
やれやれ。
まず、言ってやらなきゃならんな。
「ティルミア……今度はお前の勝ちだ。まさか、こういう日が来るとはな」
ティルミアは俺のほうを見る。
「殺人で、みんなを笑顔にしたんだぞ」
ティルミアは、怪訝な顔でこっちを見ていた。
「どうした?」
「君、誰?」
ティルミアは、そう言った。
「何だ? 記憶が混乱してるのか? 俺だよ。タケマサだ。ああすまん、状況の説明が要るな。どこから覚えてないんだ? 俺は魔王に捕まった後……」
「タケマサ……? ううん、君は知らないよ。誰?」
な……んだと。
「何言ってるんだ? どこから記憶がない? 覚えてるのはどこまでだ。ここはネクスタル王国の王都だ。わかるか?」
「ネクスタル王国? え、私、エントラル王国に向かってた筈なんだけどな。これから、ライセンス貰いにいくんだけど……」
「これからライセンス……
……
……
……だと?」
おい、それは。
それは、俺と会った日の。
すると、こいつは……。俺と出会う前に戻っちまったということかよ……!
「嘘だろ。お前……俺を忘れたのかよ」
「うーん……君が言ってることがわからないけど、私、記憶が混乱してるのかな。君、本当に誰なの?」
「タケマサだよ! お前のために蘇生師になったタケマサだよ!」
「……蘇生師? 私のため? 馬鹿なこと言わないでよ。私、蘇生師嫌い」
「なっ……嫌いってなんだよ?」
「そんな後ろ向きな職業についたのが私のためってどういう意味? なんなの?」
……嘘、だろ。
全部、忘れちまったってのか。
この二ヶ月あまりのことを……。
「ティルミー、私のことも覚えてないの?」
チグサだった。だがティルミアは首を振った。チグサは悲しそうな顔になった。
「とにかく……皆さん。ここで立ち話はあまりに目立ちますから、城へ入りましょう。特にティルミアさん、このままじゃ集まってきた国民にもみくちゃにされますよ」
ミレナの促すのに応じて城へと戻る。
俺は、頭が真っ白になっていた。
後ろで、誰かがティルミアに状況を説明していた。
そんな馬鹿な。
俺は計算したんだ。
一週間と2日前。
ティルミアに制約魔法をかけたタイミングより前。余裕を持って、俺が魔王に連れられてきたあたりの二週間前くらいの記憶までが回復するように調整したつもりだった。
ルードとの戦いの時の蘇生では数時間くらい失われた。街でお婆さんの記憶も数時間失われた。チグサはほぼ失わなかった。リブラは数日……。幾多の経験から調整した俺の術式は……。
計算ミスがあったってのか。
指先が泡立つような感覚。取り返しのつかないことをしたのか俺は。
ティルミアの狙いどおり、制約魔法がかかる前の記憶には戻った。制約魔法も解けた。
だが、これじゃ……。
これはあんまりだ……。
「ねえ、君、制約魔法……っていうの? 解いてよ」
「え?」
「タケマサ君って言うんだよね? どうしてこんなことしたの? 殺人ができなくなる魔法なんて……ちょっとなんていうか、酷すぎない?」
「いや……お前、お前はブレないな。ちゃんとティルミアだな」
「訳わかんないこと言わないでよ。話聞いてるの? 私話聞かない人嫌い」
「……いや本当に、お前はティルミアだよ。笑っちまうほどにな」
「はぁ?」
「悪い悪い。ああ、殺人を禁じたのは俺だよ。そう、制約魔法だ。だがこれは解けない……いや解かないんだ」
「なんで?」
「殺人は……どんな理由があろうとダメだからだ。人としてやっちゃいけないことだからだ。それ以上の理由はない。とにかく禁止。やっていい殺しとやっちゃいけない殺しの区別なんかないんだ」
「そう思うならそう思ってればいいけど、皆にそれを押し付けないでよ」
「はっはっは……。同じ議論だよな。うん、懐かしい。ティルミア、すまんな。一回したんだその議論は。結論は出てるんだよ。俺はこの制約魔法は解かない。話は終わりだよ」
「どうしても聞いてくれないの?」
「ああ……。これに関しては、話し合ってどうなるもんじゃない。話し合ってるうちに人は死んでいく。そんなのはたくさんだ。議論で結論は出ない。俺はこの考えを押し付ける。秩序を取り戻すためには、やむを得ないことだ」
「わかったよ」
す、とティルミアが手を出したので握手をしたいのかと思った。なぜそう思ったんだろう。
ティルミアの手が俺の胸に刺さっていた。
「じゃあ殺すしかないね」
「……え……あ……?」
「ティ、ティルミー!!!! 何……何してんの……!!!???」
「ティルミアさん!」
「タケマサ!」
誰かの悲鳴が聞こえる。
ティルミアの手は、暖かかった。きっと、何の緊張も無かったんだろう。
「ティルミア……なんでだ」
「だって、君の考え、私は気に入らないもん。迷惑もしてるしね。なのに、話しあう余地がないんでしょ? 殺すしかないじゃん」
「気に入らないからって……おま……それじゃまるで……殺人鬼……」
「うん、そうだよ」
そう言って、俺を知らない殺人鬼はにっこりと、俺の知っている笑みを浮かべたのだった。




