第八章 4/8
「デル・サル・トリエラム……「なせ」……」
石でできたひんやりした床に手を降ろし、置くように呪文の最後の言葉を発した。
相変わらず制約魔法には何の視覚効果もなく、盛り上がりに欠ける。だが、これで階下にいる数十人の「旅人」たちを対象として、制約魔法「殺人罪」が発動した筈だ。対象範囲をぐっと絞った縮小版。半径10メートルほどしか効かない。
終わった、ということを目配せでアリサリネに伝える。すると頷いて、階下に降りていくアリサリネ。
「はーい、みなさーん。お待たせしましたー。殺人の無い楽園、ネクスタル王国王都へようこそ!」
楽しげに愛想を振りまくアリサリネの声が響いた。こんなキャラだっけ。
「詠唱時間、八時間十五分。……だいぶ短くなってきたのう、タケマサ」
初日爆睡した俺は、二日後から二日に一回、こうして王国への「新規参入者」向けの制約魔法詠唱を行うことになった。初回は十七時間かかった。一昨日は十三時間。だんだん短くなっている。
「このぶんでいけば法廷労働時間内におさまりそうだな」
「安心せい。この世界には労働基準法など無い」
「せめて残業代くらい出してくれ」
「お主は誰に雇われとるわけでもないわ」
「就職できたと思ったら無職になっていた件」
あの日発動した制約魔法は、その時この街にいた人間にしか効果がない。この「殺人の無い世界」を維持するためには、街への新規参入者にも制約魔法をかけ続けなくてはならない。外から来る人間が殺し放題なのでは意味がないからだ。
そのことに真っ先に思い至ったアリサリネは、この国の門番に手を回し、街に新しく入ろうとする人間を全て城門前で待たせるように指示した。
この城門入り口の小部屋に集まった人たちだけを対象に、効果範囲を半径十メートル程度に絞るならどのくらいの詠唱時間でいけるか。
その質問に対するミサコの答えはこうだ。
「二日、というところじゃな」
だが俺の答えはこうだった。
「いやミサコ、一日でいける筈だ」
俺は自信を持って答える。
「十メートル程度なら呪文だけでなく、対象全員を予め魔法陣の上に立たせることができる。そうするなら、呪文の前半部分がほぼ陣術で置き換えられる。違うか?」
ミサコは一秒ほど沈黙した後、ニヤリと笑った。
「……成長著しいのう。原始魔法陣にまで思い至るとは」
「呪文や印が伝わるなら魔法陣だって伝わる。原始精霊も契約精霊もそこは同じだろ?」
ミサコは、くっくっくと笑った。
「その通りじゃ。一日でやれるじゃろう。お主なら……改良を重ねれば半日くらいまで短縮することもできようぞ」
「……よし。じゃあ当面、二日に一度、この街の門を開くことにする。この街に入れる人間には全て制約魔法を課すんだ。一人残らずな」
あまり待たせるのも悪いので二日にいっぺんにしたが、結構な重労働だった。もっと呪文の短縮を図らなければそのうち俺が過労で倒れる。
誰か他にも制約魔法の使い手を育てるかな……と俺は考えながら、城門上から街へと続く広場を見下ろした。
首をかしげている者もいる。説明を聞いてもピンとは来ないのだろう。どだい、普通の人間にとって人を殺せないことなど何の問題も無いことだ。
ゆっくりと街に入っていく人間たち。
積み荷のやたらと多い行商人が主だが、冒険者風の人間も混じる。
「どうしたタケマサ。あの女戦士が好みか」
「……ちゃんと、全員に説明してるんだよな。制約魔法のこと」
当たり前じゃろう、とミサコは言った。
「制約魔法というのはそもそも、相手に納得ずくでかけるほうが本来の姿なのじゃ。催眠系魔法は元来その方がかかりやすいしな。当然、あの冒険者は自分が何ができなくなったのか理解しておる」
「よく納得したな」
殺人ができなくなる……ということはつまり、対人戦闘能力を失うということだ。冒険者として旅をしてきたのであれば、街の外では山賊のような連中を倒した……「殺した」こともあっただろう。その力を取り上げられると聞いて簡単に納得できるものなのか。
「冒険者とて好きで殺しをするものなどいない。自分だけであれば危険じゃが、周りも同じじゃから問題はない。街を出ていく時には解いてやるとも言ってある」
「街に入るにはこの魔法を受け入れることが条件だと言ってるんだから半分脅しみたいなものだがな……」
「そうネガティブに受け取る者はおらんよ。この街のことは徐々に外にも噂として広まっておるそうじゃぞ。この街の平和さが評判になれば、誰も出ていきたいなんて言い出さなくなる。まさに地上の楽園になる」
「言い過ぎだろ。だが確かに……今のところ評判は悪くないんだよな」
街は、実際、確かに。平和になったのだった。
この街では毎日何人も、年間で千人を越える死者が出ていたという。それが何十年も続いていたこの街の当たり前だった。
それが止んだ。死人がゼロになった。奇しくもここ数日は病気などでの死者も出ていないこともあり、文字通りゼロだ。
もちろんまだ、皆に実感があるわけじゃないだろう。今までだって、たまには死人の出ない日はあっただろうし。
だが、そろそろ、世界が変わったことを人々が理解し始めた筈だ。
やっぱり、これが正常な世界だよな、と思う。
「城に戻るか」
俺とミサコ、アリサリネ。ザ・非戦闘員ズ。およそ戦闘能力の無い三人がこうして丸腰で街の中を歩いていられるようになった。今はあのジン君も護衛にはついていない。
街を歩く俺たちは遠巻きに注目されているようだった。やはり、あの騒ぎの後ではすっかり顔も知られてしまっているらしい。
「……ちょっと、待ちなさい!」
女の声が聞こえて振り向くと、小さな女の子が走ってきた。
「お兄ちゃん! ありがとう!」
「こ、こら! す、すみません! 失礼を……!」
慌てる母親の手をすり抜けて寄ってきた女の子が差し出したのは、黄色い花だった。
「くれるのか?」
「うん!」
礼を言う間もなく、女の子は母親に連れられていってしまった。
「タケマサが作った平和よ」
「……ああ。これで良かったんだよな」
*
城の一室に執務室を借りた。借りたと言っても王も魔王も居ないので勝手に使っているのに近いが。
扉が開いた。人の背丈の3倍はあろうかという、部屋の狭さに対して無駄に天井の高い扉が。
「タケマサ国王様」
うやうやしく跪いて挨拶をした魔導師を俺は横目で睨む。
「冗談はよせよミサコ」
「はっはっは。満更冗談でもあるまい。お前は今やこの国の支配者じゃ。誰もお前には逆らえんのじゃからな」
「殺人を禁じただけだ。その他の何も俺は支配していないぞ」
「そうじゃなぁ。じゃが、民衆にとってはお前はそれだけではないぞ。あの魔王の唯一の長所である、「誰をも殺せる」という牙をもいだのじゃ」
ミサコは俺の横から肩をポンと叩いて、にやりと笑った。
「あんたのこと、「魔王を倒した勇者」って呼ぶ人もいるんだよ?」
……などとミサコは言うが。
魔王は死んだわけではない。
だが確かにおとなしくはなってしまった。今、魔王は地下の牢屋に監禁してある。
別に人を殺せなくなっただけでその力が無くなったわけではない。なのにどうして監禁などということができるのか。
実は魔王を閉じこめた牢の番をしているのは普通の兵士だ。普通というか、体が弱く、平均より非力な兵士を見つけてこの任務に当てた。アンガスという名のこの青年は、魔王の強大さは嫌というほど知っていたので最初この役目を嫌がった。
魔王は彼を容易に殺せるということを知っていたし、それに対して彼は自分が何をしても魔王を絶対に殺せないと知っている。
ところが。だからこそ、殺人罪のある世界ではこの力関係が逆転する。
魔王は、牢の鍵を壊すことなど容易い。だがこの牢番のアンガスが立ちはだかれば、けして彼を押し退けて牢を出ることはできない。アンガスと押しあいになったら、うっかり力を入れれば彼を容易に殺してしまうからだ。
制約魔法「殺人罪」は、人の命を奪う可能性のあると意識したこと全てにブレーキをかける。魔王にとってアンガスは、絶対に手が出せない相手なのだ。
対して、アンガスのほうは自分がどんなに魔王を押し返そうとも魔王が死なないことを知っている。だから魔王を押さえつけることが可能だ。
アンガスはただ牢の前に立っていればいい。それだけで魔王は牢を出ることができない。
もちろん、壁を壊せば牢を破壊することはできる。だが魔王には予め、その壁の向こうには別の身体の弱い囚人がいることを伝えておいた。壁を壊せばその破片が飛んで壁の向こうの囚人を傷つけ殺すことがあるかもしれない、と説明した瞬間に、魔王は行動の自由を奪われた。
……。
魔王は暴れたりしなかった。牢に入れる前から既に気力を失っていたようだった。
あの時。
魔王は最初こそ怒り、俺を殺そうとした。だがそれが何をどうしても行動に移せないと理解しきった時、生きる意志を失ったかのように、何も言わず何もしなくなった。
アンガスが魔王の腕を掴んで連行してからも、結局押しあいにすらならなかった。今はただ黙って牢屋の中に座っているだけだ。話しかけてもろくに返事もしない。
「奇妙な気分ですよ。あの残虐非道な魔王を、役立たずの弱虫と言われ続けてきた私が封じているというんですからね。変な話、ここまで重用されたことが無かったので気恥ずかしいやら。人生、こんな一発逆転があるのですね」
失礼な役目を命じてしまったかと思ったが、アンガスは喜んでいた。
*
「別に俺は魔王を倒したとは思ってないぞ」
「あんたが思わなくとも、国民は思ってる。あんたは今や、この国を魔王から救った英雄なんだよ」
ミサコはウィンクした。うわ、こいつウインク下手だな……。
ミサコの言うのはある意味であっているのだろうが、国民の100パーセントが俺を支持していると思うほど楽観主義者じゃない。あの時あの広場に、ティルミアの方に共感する人間も少なからずいたのを俺は肌で感じた。
「それにしても……連中はどこに行ったんだろうな」
「連中? 魔王の部下たちのこと?」
頷く。
レジン、ラーシャ、ジン、その他何人か。いつの間にかいなくなっていた。
あの日、俺たちは魔王を捕らえることはできたが、気が付くとステージ上にいた筈のレジンも含めて、部下の連中がいなくなっていた。
制約魔法の効果範囲にはいた筈だから魔法は効いている筈ではあるが、何か企んでいるのか少し不気味ではある。
まあ、考えてみれば魔王だって、あの身体能力なら別に俺たちの誰も傷つけずとも包囲網から逃げ出すことくらいできたんだろうと思うが、そんなことは考えなかったらしく、全力で俺を殺そうと身構えて一歩も動けないまま、兵士達に捕らえられたのだった。
*
平和な日々が続いているうちに、城に懐かしい顔が現れた。
「久しぶりだな、タケマサ。出世したようで何よりだ」
「……! メイリじゃないか! 何週間ぶりだ? ずいぶん長く離れていた気がするな」
俺の執務室はちょうど玉座の間の横に借りていた部屋だったので、まるで俺が王でメイリが謁見に来たような位置関係になってしまった。
「あ! ボス! お久しぶりです!」
ちょうど玉座の間にやってきたティルミアが元気よく挨拶した。メイリは呆れたように笑った。
「全くお前は……。ボスと呼ぶなら定期連絡くらいしろ。一人乗り込んで音沙汰無いから心配してアレコレ探りを入れたぞ。そもそも……タケマサ。聞いたぞ。魔王相手にずいぶん無茶をしたものだ」
メイリは城に来るにも特に気取る様子はない。相変わらずの黒いパンツスーツ姿にマント。メガネの奥の目は笑っていた。
「……結果オーライだ。あれ? そういや結界は? 入れるようになったのか? ……あ、レジンがいなくなったからか。あいつの仲間の結界魔法使いもいなくなったのかな。だからこの国に張られていた結界が維持できなくなったんだな」
なるほど……とメイリは顎をなでた。
「やはりあいつがいたか。そして今はいないわけだな? 急に結界が消えたらしいと聞いて不思議に思ったがそういうわけか。あいつはどうしていなくなった?」
「わからん。気がついたらいなかった」
メイリは眉根を寄せた。よからぬものを感じているのだろう。
「他の皆も来ているのか?」
「ん? ああ。事務所の全員じゃないがな」
「あ、そうするとみんなにも制約魔法をかけちゃったのか。門から入ってきたんだよな。全然気づかなかったよ。最近はいちいち新規参入者の顔を確認したりしてなくてな」
そうだよ、殺人が禁じられるのが嫌な奴らは城の外で待ってるぞ、とメイリは笑った。殺人を禁じられて困るのはティルミアくらいのものだろうと思っていたが、そうでもなかったらしい。
だが知り合いだとて例外をもうけるわけにはいかない。
その時、慌ててミサコがやってきた。
「タケマサ! 大変大変! 反乱勢力が街に来た!」
「なんだと……?」
ぜえ、ぜえ、と相変わらず体力の無さを見せつけるミサコ。
「メイリ事務所の連中だよ……! あれ、そういえばあんたもメイリ事務所から来たとか言ってたっけ……」
「ゴホン。お久しぶりですな魔導師どの。私がメイリだが覚えておいでですかな」
「えっ……ええええええ!」
ああやかましい。そう言えばこいつ、蘇生させたときに言ってたな。反乱勢力だとか。
意外にもメイリはミサコと知り合いだったらしい。
「あ、あの、ゴホン。そうじゃ、いかにもワシが紅蓮の魔導師じゃ。一応言っておくが、お主らを嫌っておったのは前王アルフレッドであってワシではない。そこのところ履き違えんようにな」
何を怯えているのかと、俺はおかしくなった。
「心得ております。タケマサが世話になりました。大魔導師どののお力も拝見いたした。制約魔法、お見事です。ここまで国を変えられるとは」
「……ま、まあな。お主らは……その、この国を滅ぼそうとか考えているわけじゃあるまいな」
メイリは吹き出した。
「まさか。私どもは私どもの生活を守りたいだけでございますが、どうしてもアルフレッド王とは相容れないところがありましてな。その話はおいおい……。しかし我らのほうから事を構えよう等とは思っておりませんし、王亡き今、何のわだかまりもありません。ご安心を」
「……ではなぜこの城へ?」
「要件は2つ。一つは我が事務所のタレント、タケマサとティルミアの無事を確認しに。これは果たされました。もう一つは、制約魔法のことを聞き及びましてな。前代未聞の規模での魔法による統治。その偉業を直接目にしたいという思いと……心配が少々」
「心配とな?」
「さよう」
「何を心配することがある。魔王ですら封じ込めたのじゃぞ」
「ええ。それは予想外でした。……ただ、気がかりはもう一人。魔王の参謀を務めていたレジンという名の男でございます。……取り逃したとか」
「レジン……確かに姿を見かけぬが……特に探させたりもしとらんな。制約魔法が効いておるゆえに放っておいておる。何を企もうと物騒なことはできぬ筈じゃからな」
メイリは、少し言い淀んだ。
「杞憂であれば越したことはないのですが……」
「ああーっ! タケマー! 見つけたぁ!」
甲高い声が響いた。玉座の間は天井が高いが球形で音がよく響く。
「チグサか。久しぶりだな」
「やっるぅタケマー。王様になったらしいじゃん! 謁見させちくりー」
「お前……酒瓶片手に謁見しにくるなよ……」
チグサだけではなかった。ミレナ、リブラ、サフィー、それにディレムも一緒だった。とりあえずミサコに紹介する。
「……何なんじゃ。王様になったからハーレムでも作ろうとでもいうのかタケマサ」
「何言ってんだお前」
「凄い美女軍団ではないか。これで合計八人じゃぞ? まったくタケマサがこんなスケベだとは思わなかったのう」
「八人て?」
「この五人の女子にメイリ、それからティルミアに、アリサリネ、そしてワシ」
「さりげなく変なの混じったぞ」
「酷いのう。変なのなんて言ったらティルミアが可愛そうじゃろうが」
「え、私なの?」
とばっちりティルミアが自分を指さして困惑。
やれやれ。平和だ……。
「おい、なぜ私が入っていないんだ」
うわびっくりした。
「いたのかユリン兵士長」
「最初からだ。なあ。最初からいたぞ。なんで無視してるんだ。言っただろう。殺人罪だけはお前に従ってやるが、この国の要である兵達をお前に与えるわけにはいかんと。王宮近衛兵士長は私だと」
そう、俺がいくら魔王を封じたと言っても、この国の兵士たちは正式に王位を継承したわけでもない俺の部下になってくれたわけではない。
正式には王不在のこの国で、兵士たちを実質束ねているのはユリン兵士長だ。俺から見ると色々と残念な奴だが、なぜか兵士としてはやたらに信望があるこの兵士長は、魔王と同じように俺に何も手を出せないと知ると、条件を出してきた。
魔王を捕らえたり、城門で旅人を待たせてもらったりと、兵士の協力が必要なことは多い。そうした時に兵を動かしてくれることをユリンは申し出た。確かに彼女が協力してくれれば話が早い。
その代わり、この国の王位を望まないこと、そして殺人罪に関わること以外は次の王に従うこと。これをユリンは要求した。俺は前者はすぐに承諾し、後者は条件次第だと言った。次の王に従うかどうかは次の王次第だと。ユリンはそれで納得した。
後者に関しては実質的には従わないと言っているのと同じなのだが、ユリンは次の王は王たるに相応しいお方が選ばれるから問題ないとか言っていた。まずは王を選出する権限のある宮廷の重鎮たちを集めることからだとか張り切っていたが、ここ数日どうも誰が王位を継承するかで王子たちが揉めているらしく、なかなか決まる様子はない。まあ、どうでもいいことだが。
「で、王宮近衛兵士長のユリンさんはハーレムに入りたいのか」
「誰が入るかそんなもの。だが美女軍団と言って殺人鬼まで入れておいてなぜ私を入れない! それは客観的に見ておかしいだろうというところをだな……」
「ミサコ。入れてやれ。あいつコンプレックスらしいんだよ」
「んー。仕方ないのう。まあ賑やかなほうが良いじゃろうしな……」
やれやれ。
平和だ……。
この時の俺は、まさかこのノホホンとした日々がずっと続いていくなんて、微塵も思っていなかった。
「タケマサさん! 大変です! 街で! ……人が! 人が殺されています!」
思ったとおり、一瞬で終わった。




