優しい幽霊
森をさまよいながら、私は耳を澄まし、物音のが大きい方へ足を向ける。
獣の予感だ。
ガサガサと草の揺れる音に、希望を抱いて走り出した。
するとそこには、牙を剥き、咆哮を上げている——ウサギが…可愛らしく威嚇している。
落胆し踵を返して歩き始め、気がつけば、またあの月明かりの下に立っていた。
「……またここなの?」
呆然と立ち尽くす私の前に、宙に浮いた黒髪の青年が、待っていたかのように口笛を吹いた。
「おかえり〜。また食べてもらえなかったの?」
金の瞳をにやにやと愉快そうに細め、肩をすくめる。
「たしかに、この森は迷いやすい上、獣もいると僕は言ったけど……案内を振り切って獣を探すなんて!
しかもこれで4回目!ほんっと不思議だよねえ。
そこまでして死にたい?ねえ、どうして?」
私の周りをクルクルと飛び回り、まるで煽っているかのようだった。
しかし、体力は限界に近づいており、何も言い返すことが出来ない。
その場にへたり込み、餓死は自殺だろうか、と考えながら目を閉じた。
ゆっくりと瞼を開けると、優しい光が目に差し込む。
冷たい土の感触に包まれながら、ぼんやりと屋根裏部屋の、硬く汚れたベッドよりも快適だったな、と感じた。
夜とは打って変わって、優しい森の木々の音が聞こえ、柔らかい木漏れ日が神秘的に輝いている。
もしかして死ねたのだろうか、もう一度このまま目を閉じてしまおう、そう考えていると、視界の端に、宙に浮いた黒い影が映った。
「おはよ〜、死にたがりちゃん。
起きないから、このまま死んじゃったかと思った。」
金の瞳がきらきらと揶揄うように笑っている。
幽霊は夜にしか現れないというのは迷信か。
眉を寄せ、ぼそりとつぶやいた。
「……私、生きていていたのね。」
「はいはい、ほら。こっちにおいで」
ひらりと手を振り、木の枝を指差した。
そこには赤黒い小さな木の実がいくつも鈴なりに実っていた。
「食べなよ。見た目はアレだけど毒じゃない。むしろ甘いらしい。」
「獣を探しに行きますので、必要ありません。」
ヘラヘラした様子の幽霊に背を向けふらふらと立ち上がる。
「獣だって、選ぶ権利はある。そんな骨と皮だけの人間は襲う価値もないんじゃないかな。脅威でもなく餌ですらない。」
あはは!と大きく笑う声を聞き、少し苛立ちはしたものの、確かにそうだと腑に落ちた。
そして、半信半疑でその木の実を口にする。確かに優しく甘酸っぱい味がした。
空っぽだった胃がきゅるると鳴り、思わず顔が熱くなる。
「君は栄養失調にも程があるからね。ついて来れる?泉がある。」
「…はい。」
小さく頷き、そのふわふわと浮いている幽霊をみつめる。
その視線に気づいたのだろうか。
「そんなに見てるけど——…僕のことはっきり見えるの?」
ヘラヘラと問いかける幽霊をよそに、私は思ったことをそのまま口にした。
「想像よりも、ずっと、普通の人間らしく見えます。」
「へえ、そうなんだ!血だらけとかじゃないんだ…。」
「幽霊は悪いものだと思っていました。」
「どうなんだろう。他の幽霊に出会ったことがないからね。」
そして明るい声で話を続ける。
「ねえねえそれよりも、僕どんな見た目?恐ろしい?かっこいい?」
ねえねえねえ、としつこく問いかけてくる。あまりにも呑気なその雰囲気に、毒気を抜かれたような気分になる。
「あ、ここだよ。綺麗な水を飲んで、しっかり木の実を食べると生きる気力が湧くかも!」
先程まで木々が生い茂る森を歩いていたのに、ふと視界がひらける。
朝の陽に照らされ、宝石のようにキラキラと輝く大きな泉は、とても静かで、底まで透き通って見えた。
水は青とも緑ともつかぬ色をしており、
表面にはひらひらと白い花びらが浮かび、風が吹くたびに円を描いて広がっていく。
耳を澄ませば、水が小さく流れ落ちる音が、清らかに響いていた。
泉の水を口に含むと、冷たさが心地よく、乾いた喉を潤す。
まるで身体の奥まで清められていくようだった。
「どう?綺麗でしょ?」
宙に浮かんだまま、子供のように楽しげに笑いかけてくる。
「……はい。」
わずかな声は、しっかりと彼の耳に届いたようだ。
素直に返事をする私の姿を見て、よかった、と満足そうに手を叩き、木の実を指で弾いて私に投げてよこした
「幽霊は物質に触れるのですか?」
「触れられないよ、触感もない。でも少しだけ動かせるんだ。こう、強く念じるとね、、こんな感じで、、、」
曖昧すぎる説明で伝わるわけもなかったが、その頑張って伝えようとしている姿を見て、少し呆れて笑ってしまった。
その声を聞いたのか否か、幽霊はこちらに顔を向け、優しい笑顔で私にこう言った。
「君は今この森から出ていく気はないみたいだし、今はここにいるといいよ。」




