レイナと申します
何もうつ手が思いつかず、そのまま2週間ほどが経ち、私は憔悴していた。
このままでは、自分も被害を受けるだけでなく、これからも、何人もの人が犠牲になるかもしれないのに。
焦りからだろうか。早足で廊下を歩く私は周りに注意を向けることができず、すれ違った使用人と勢いよくぶつかってしまった。
ガン、と大きくバケツがひっくり返った音がする。
慌てて膝をついたのは、私と同じ年ほどの少女だった。
「ご、ごめんなさ——「申し訳ございません!!濡れてはいませんか!?」
勢いよく言葉を被せられ、私は呆気に取られた。
急いで水を拭き取っている茶髪の少女の服の袖は深く破れていて、それが更に広がりそうなほど、糸がほつれている。
私はしゃがみ込み、その袖を手に取った。
「こちらにきてください….。」
バケツを持った少女の手を引いて、近くの部屋に戻り、針と糸を取り出す。
少女はぽかんと目を丸くしていた。
「あ、あの……?」
「応急処置です。」
そう言って私は、少女の袖を縫う。
今まで自分の服は自分で用意していたので、裁縫は慣れたものだ。
「そんな……!ただの下働きの服ですから!」
慌てて止めようとしているが、すぐに縫い終えてしまった。少女はまた目を丸くして整えられた袖口を見つめる。
「す、素晴らしい腕前です…!
応急処置どころか、このまま仕立て屋に並ぶほどです。等間隔に細やかな縫い目でこんなに早く縫い上げるなんて!普通できません。」
「そんな、言い過ぎです…。」
あまりにも褒められてしまい、少し恥ずかしくなったが、今まで生きる為に身につけるしかなかった裁縫が、こんなところで生きるなんて、と嬉しくも感じた。
「ああ、なんとお礼を言えば…
下働きの私にできることは限られていますが、何かお力になれませんか?掃除は得意です!」
私は慌てて首を横に振る。
「お礼なんて必要ありません。」
だが、少女は譲らなかった。両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、真剣な眼差しを向けてくる。
その熱意に押されて、少し考えてから、やがて暖炉へと視線を向けた。
「……では。今、時間があるのなら、暖炉の掃除を手伝っていただけますか?」
少女の顔がふわりと明るくなる。
「もちろんです!」
そして、二人で並んで膝をつき、暖炉の灰を掻き出し、煤で黒くなった煉瓦を丁寧に拭っていく。
私は、明るく、丁寧で、仕事に熱心なその少女に既に好感を抱いていた。
静かな作業の中で、ふと少女の髪が目についた。
結わえた髪の根元に、淡い桃色のリボンが揺れている。着潰したエプロンドレスとあまりにも合っていない、上質で美しいリボンだった。
「……そのリボン、とても綺麗ですね。」
何気なく告げた一言に、少女ははっとして振り返る。
「違うんです!盗んだものではなくて……!」
「い、いえ、疑っていませんが……」
パチパチと瞬きをする私を見て、少女はやってしまった、というような表情を作り、青ざめた顔で謝罪を繰り出す。
「申し訳ございません…。」
そして、少女は言葉を重ねた。
「このリボンは……姉から譲り受けたものなんです。
私の家は没落してしまいましたが、元は貴族だったのです。
お金になりそうなものは全て売ったのですが、これだけは手元に残しておきたくて。
本当に申し訳ございません。よく疑われるものですから、つい…。」
煤に汚れた指先を握りしめながら、ぽつぽつと語る。
私はその姿を見つめ、静かに問いかける。
「私はリュシアと申します。……お名前は?」
少女は一瞬だけ迷い、けれど真っ直ぐな瞳で答えた。
「レイナと申します。元は、ルーメルトンを名乗っていました。」
——ルーメルトン?
身に覚えがある名だった。
私はどこかで、聞いたことがあるのだろうか。
「ルーメルトン……」
小さく繰り返す私に、レイナは苦笑した。
「しがない子爵家でしたし、領地は遠く……生まれた頃から貧乏でしたので……きっと覚えている方なんて、ほとんどいらっしゃらないと思います。」
その言葉と同時に、胸に冷たい稲妻のような感覚が走った。
「あの、他に姉妹はいらっしゃいますか……?」
「いえ、姉と私の2人姉妹でした。」
「……お姉様の……お名前を、聞いても……よろしいでしょうか。」
突然様子を変え、震えた声で聞きだす私姿に、レイナは一瞬きょとんとした後、懐かしむように、ほんの少し微笑んだ。
「……カトリーナです。優しくて、自慢姉でした。」
——その瞬間、世界が反転したように視界が白く弾け、血の気が一気に引いていく。
椅子の背もたれにすがらなければ、倒れてしまいそうだった。
「リュシア様!どうなさいましたか?」
——まさか……いや、でも……間違いない……!
私は慌てて机の方へ向かい、引き出しにしまっていた紙束をがたがたと震える手で取り出した。
乱雑に広げた羊皮紙の中にに、確かにあった。
死亡届と、契約書。
ドルンベルク侯爵家が出していた、数々の若い女性の名が並ぶ書類。
その中に、あったのだ。
『カトリーナ・ルーメルトン』
無垢な瞳。レイナは、何も知らないのだろうか。
「レイナ……今日はもう大丈夫です。下がってください。」
困惑しているレイナを、半ば無理やり下がらせる。
私は考える時間が欲しかった。
ぐるぐると頭が混乱している中、しばらくして、外から扉を叩かれた。
「リュシア様、リュシア様、私はーーーー」




