婚姻に準ずる契約書
嫌なことは連続して起こるものだ。
数日後、ふと王子の書斎の扉の前で口論が聞こえ、足を止めた。
内側から、低く抑えられた声が漏れていたのだ。
「……ドルンベルク卿が彼女を引き取るとは……。」
それは、王子の声だった。
「お前もわかっているだろう。身寄りも学歴もなく、怪しい噂も付きまとう娘だ。王宮に長く置くには危うい。」
聞き慣れぬ重々しい声。言葉遣いからして殿下よりも立場の高い———王のものだろうか。
「ですが、父上、噂を聞いたことがないとは言わないでしょう。」
「まあまあ、良いではないか。全ては噂に過ぎない。」
王は軽やかな声で笑っている。
聞き間違いじゃない。
自分の耳にした言葉が頭の中で何度も反響する。
息を吸っても肺に空気が入らない。
視界の端がぼんやりと滲み、頭の中ではガンガンと警報のような轟音が鳴り響いていた。
ドルンベルク家の歴史は長く、古くからその地位を守ってきた名門貴族だ。
何人も王妃を送っていて、貴族社会では王家を除き一番の権力者である。
その確固たる地位は、ドルンベルク家が担う立場がそうさせていた。
——処刑人。
ドルンベルク家は、この国が始まる前から、ずっとこの地で代々処刑人の役を担っている。
彼も王も、ドルンベルクを無碍にできない。
王宮に来てから、歴史や情勢を少しずつ学ぶ中で私はそれを知った。
そんなドルンベルク家と、私のような弱小子爵家の娘が婚約を結んでいたとはあまりにも不自然だ。
そして、ドルンベルク家に嫁いだ者は何人も死んだと言うが、公的にはまだ誰とも結婚、いや婚約すらもしていなかった。
結局、私は……あの家で虐げられていた頃と、何も変わらない。
ただ流されるがまま、耐えるだけ。
運命を呪い、死を望む。
走って自分の部屋に戻り、隅に座り込んだ。うつむく私の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「セオ、幸せになるなんて、やっぱり私には無理だったのかもしれません。」
小さな声が、宙に溶けていく。
すると、突然、冷たい風が私の頬を掠めた。
窓を開けていたっけ。普通なら、そう思うのだろうが、私はハッとして、立ち上がる。
「セオ?セオなの…?」
棚の上からカランと優しい音が鳴った。
咄嗟に振り返ると何も入っていなかったはずの花瓶に、オレンジ色の、丸く美しい花が何本も咲き誇っていた。
私の瞳から、抑えていたものが決壊したように涙が溢れ出す。
ほんとうに、近くに見ていてくれていた。
やはり、森の中とは違い、姿や声を感じることはできない。
それでも私にははっきりと彼だと言うことがわかった。
花に触れようと、与えられた小さな勉強机に近づく。
すると、机の上に沢山の書類が置かれていることに気付いた。
それは見覚えのないものだった。恐る恐る手に取り、目を走らせる。
「……死亡届?」
これは、国に届け出る公的書類だ。
こんなところにあっていいはずがない。
9枚ほどあり、すべて女性の名前が書かれている。
一番古いもので10年ほど前で、年齢は16歳から22歳までの若い女性のものだった。
「これは……。」
素早く次の束を開く。それも同じ数、8枚の契約書。
「婚姻に準ずる誓約書」と題されていて、その隣には、金額が細かく記されている。
「婚約時、婚姻時、その後ひと月ごと、そして、死亡時…」
聞き覚えのある文字列に私は手を震わせながらも読み進める。
「ただし、婚約届、婚姻届は国に届けず、非公式のものとする。」
「絶対に、口外しないこと…。」
署名の隣には「ドルンベルク侯爵家」の名があった。
「結婚ではない……金で、娘を……。」
視界が揺れる。
目眩に耐えながら、私は全てを理解した。
つまりドルンベルクは、誰とも正式な婚姻を結んでいない。
契約と引き換えに娘を囲い、その娘が死んだとしても「婚姻関係にない」から、関与を認められず罪を逃れていたのだ。
父母も多額の金を受け取る共犯者。
狙われているのは、どれも今では没落した貧乏で立場の弱い貴族。
だから告発されない。
だから「噂」に留まり続けている。
「……っ」
「これが…私が、婚約させられた相手の……真実?」
冷たい汗が額を伝い、胸がきゅうっと縮まる。
この書類を殿下に見せれば、そうすれば、罪を告発できるだろうか。
…いや、書類だけではダメだ。
なぜこの書類を私が手に入れたのか、聞かれてしまった時に答えられない。
そうすれば偽造書類と思われてもおかしくない。
何か決定的な、証拠や証言が得られないだろうか。
契約書に記されていた貴族の名を手がかりに、手紙を書こうと居場所を探した。
殿下に、もっと貴族社会のことを知りたい、と言ってみれば、貴族名簿を見せて教えてくれた。
けれど、結果は何も得られなかった。
私が調べられる限り、全員が行方不明となっていて、連絡手段は見つけられなかった。
……それに、コンタクトが取れたとして。皆、共犯だ。娘を売った親に手紙を書いたところで真実を話すわけがない。
なんて馬鹿なのだろうと自分を責める。
せっかくセオが助けてくれたのに。
壁にぶつかるたび、胸の奥が冷えていく。
「……セオ。」
思わず名を呼ぶ。
だが返事はなく、机の上に置いた契約書だけが静かに私見返していた。




