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死にたがり令嬢の幸せ  作者: 春風もも
王宮にて
12/29

私の名はグレゴール・ドルンベルク

王宮の図書館は、天井まで積み上がる本棚が迷路のように並んでいた。

暖かい木の床は陽の光を受けて輝き、磨かれた窓ガラスから差し込む光が、ページの上に淡く揺れている。

羊皮紙とインクの匂い、静かな羽ペンの音。

私は机に向かい、分厚い本をゆっくりとめくる。

知らなかった言葉、歴史、数字、星の巡り。

新しい知識を手に入れられることは、それなりに楽しい時間だった。


暖かな食事がある。

羽毛の布団で眠れる。

絹のドレスに着替え、髪には櫛が通される。

それに、アデルハイト殿下は穏やかで、優しい人だった。


家は既に没落し、父と継母は失踪していた。

元々継母とその娘アマンダの浪費癖は病的なものであったし、私を失い、ドルンベルク侯爵との婚約を無碍にしたことで、金が追いつかなったのだろう。


「何も心配せず、今は学ぶことに集中すればいい。」

殿下にそう言われるたび、私は深く礼を述べる。


けれど胸の奥に残る寂しさは癒えることがなかった。


これほど恵まれているのに、物足りない。


誰もが羨むはずの暮らしの中で、心は乾いていた。

机に伏せれば、暖炉の音が恋しくなる。

窓の外を眺めれば、泉のきらめきを探してしまう。

誰かに微笑みかけられれば、ふと、宙に浮かぶ金の瞳を思い出してしまう。


森は既に焼かれている。

私が森を出て、ひと月ほど経った後に、全て焼き払われた。

あの美しい泉や、高台はどうなったのか、私は何も知らないままだ。


「セオ、」


小さく呟いてみる。

何度もつぶやいては、明るく、陽気で甘い、あの声が聞こえないかと、期待してしまうのだ。


——愛しているから。


その言葉の後、彼の姿は見ていない。


 


春の日差しが長い廊下を照らしていた。

与えられた部屋に戻る途中、ふと前方から近づいてくる男の気配に足を止めた。


暖かい春の風が吹き始めているというのに、厚手の毛皮を纏い、歩みはゆったりとしている。

初めて見るはずのその佇まいに、なぜか心の奥がざわりと波打った。


——なに、この感覚……。


すれ違う瞬間、男の目がこちらをとらえた。

深く刻まれた皺に覆われた顔、だが瞳だけは獲物を見つけた猛獣のように光っている。


「……おや。」

低い声が、空気を重く揺らした。


その一言で、背中に冷たいものが走る。

男はにやりと口元を歪めながら、私の顔をじっと覗き込んだ。


「君は……」

男はじらすように間を置いてから、満足げに笑う。

「いや、噂には聞いていたよ。……まさか、生きていたとはね。」


喉が詰まり、目を逸らすこともできない。

鼓動が耳の奥でガンガンと響いている。


「……あ…あなたは……?」

震える声を恐る恐る絞り出した。


その瞬間、男は礼儀正しく片手を広げ、わざとらしく名乗った。


「ああ失礼——私の名はグレゴール・ドルンベルク。君は旧ルーヴェラン子爵家のリュシア嬢だね?」


血の気が、一瞬で引いていくのがわかる。

目が周り、膝が震え、地面がぐらりと揺れたように感じる。


——この人が……。


年齢から見るに、父から告げられた婚約相手の、父親だろう。

恐怖と嫌悪で私を支配してきたドルンベルクという名。

噂と共に囁かれ、死を連想させる名が、今、目の前で現実を帯びて迫っている。


グレゴールは、舐め回すような目で私を眺める。

「いやはや……息子は惜しいことをした。まさか、生きていたとは。しかも……これほどに美しく。」


不快な視線が、肌を這う。

その笑みには温かさの欠片もなく、ただ所有物を選ぶときのような下卑た好奇心だけがあった。


私は震える手でドレスの裾を握りしめ、必死に礼をしてその場を離れた。

胃の奥から込み上げる吐き気を、どうにか押し殺しながら。

セオ不在回が少し続きます。

不穏ですが、どんどん話を加速させていきますので読んでいただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
屋敷に戻ったんですね。でも喪失感というものは時間という薬でもなかなか癒されるものではないんですよね。ましてそこに愛が介在していればなおのこと。 このまま終わるとは思いませんが漂う不穏な空気にざわざわ…
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