愛しているから
目を覚ました王子を、すぐに森の外へ返すわけにはいかなかった。
彼は名乗ったとおり、王国の王子。今も兵士や従者が血眼で探しているに違いない。
けれど、今の彼は体力を奪われ、歩くことすら難しい。
「視察中だった。……雪に足を取られたのか、突然馬が暴れて、振り落とされてしまった。気づけば、森の奥に迷い込んでいた。」
かすかな笑みを浮かべながら、王子は炉の前で姿勢を正した。
「徒歩で抜けようとしたが……すっかり力尽きて眠ってしまったらしい。情けない話だ。」
王族らしい堂々とした声とは裏腹に、青ざめた顔と震える様な仕草が、その壮絶さを物語っていた。
体力が戻るまで、アデルハイトは、この小さな小屋に泊まることになった。
私は初め、警戒を強めていた。
セオと違い、生身の人間で歳も近い男だ。
けれど意外にも、殿下は紳士的だった。
最初に「運命だ」と熱を帯びた言葉を投げかけた時とは違い、無理に近付こうとすることはなく、節度を保ち、礼儀正しく私に接した。
「リュシア、やはり王宮に来ないか?」
暖炉の炎に照らされる横顔は、揺るぎなく真剣だった。
けれど私は首を横に振る。
「私には学園での学びもありません。文字も計算も、人並みにはできません。」
「これから学べばいい。」
「この体は……傷だらけです。」
「だから何だというんだ?」
「家族だって…。」
「身寄りなんてどうとでもなるさ。」
即答されるたびに、言葉に詰まる。
王子は静かに、しかし確固たる声で告げる。
「しかし、君がどうであろうと関係ない。国としても、僕は君を保護しなければならない。」
「……どうして。」
彼はわずかに表情を曇らせ、そして重い事実を告げた。
「この森は……燃やされるんだ。近いうちに。」
血の気がすっと引いた。
耳鳴りがして、目の前の炎が遠ざかるように揺れる。
燃やされる?私の居場所は、ここだけなのに?
生い茂る草木も、動物たちも泉も、全て?
そして、この地に漂う彼は……。
——そうだ。セオは?
小屋の中を見渡す。
アデルハイトが来てから、2日、セオの気配がない。
胸をかき乱されるような焦りを覚え、勢いよく立ち上がった。
「……外へ出ます!」
「リュシア、待ちなさい!」
王子の声を背に、私は雪の中を駆け出した。
重い雪を蹴り上げながら、私は必死に走っていた。
冷たい空気が喉に突き刺さり、肺が焼けつくように痛い。
「はぁっ……はぁ……っ!」
白い吐息が乱れ、視界は涙でにじんでいる。
「リュシア!リュシア!!」
背後から鋭く、自分を呼ぶ声が響いた。
「止めないで!探さなければならないのです!」
振り返らずに叫ぶ。
今すぐ、セオに伝えなければいけない。
「違う! そうじゃない、リュシア!」
私は足を止めず辺りを見回しながら走り続ける。
「ごめんなさい! すぐに戻りますから……!」
「ああ! もう! 僕だよ!」
なんだか聞き覚えのあるような声だと、ふと感じた。
そもそも、まだ体力が戻ってない殿下が、雪の中、私を追いかけられるだろうか。
私は勢いよく振り返る。
そこには――いつものように宙にふわりと浮かぶ黒髪の青年、セオがいた。
金の瞳が、雪明かりに反射して静かに光っている。
「セ……オ……?」
息を切らしながら信じられないものを見るように呟く私に、セオはいつもの調子で笑った。
「もう、リュシア、いつの間にそんなに走れるようになったの?
僕はちゃんと最初から見てたよ。
全部ね。だから大丈夫。」
何が大丈夫なのだろう。
胸がじくじくと痛む。
声を出したいのに、声にならない。
「セオ、森が、森が、!」
セオは、明るく言葉を続けた。
「よかったじゃん。あいつ、王子なんだろ? 悪いやつじゃなさそうだ。家族のことだって、婚約のことだって、きっとどうにかなる。
……いや、もう一年近く消息を絶ってるんだから、婚約なんて無効だよ。」
私に喋る暇を与えないかのように言葉を続ける彼の笑顔は、いつも通り軽い。
けれど、私の思い違いか、はたまた願望だろうか、彼の瞳の奥には寂しさが宿っているように見えた。
「この森が燃やされるのも、聞いたよ。
心配しなくても大丈夫、僕はこの森に囚われているわけじゃないから。
居心地がいいだけで、実はどこへでも行けるんだ。」
雪がしんしんと降り積もる中、セオは少しだけ目を細め、最後にこう告げた。
「だからさ……君は、彼と一緒に行くんだ。」
聞きたくなかった言葉に、心臓がぎゅっと掴まれたように痛んだ。
吐く息さえも凍りつくほど、冷たい空気が、喉を締める。
「……嫌です。」
振り絞った声は震えていた。
雪の冷たさよりも、胸の奥を締めつける苦しさのほうがずっと強かった。
セオは目を伏せ、しかし柔らかな声で告げる。
「大丈夫。君なら上手くやれるよ。」
私は強く首を振った。
雪粒が髪に絡みつき、頬を濡らす。
一度溢れた涙は、もう止まらない。
「嫌です……嫌です!
ずっとここに、一緒にいればいいって……やりたかったこと、一緒に取り戻そうって、言ってくれたじゃないですか……!」
声は次第にかすれ、喉の奥で詰まっていく。
必死に繋ぎとめようとする私の言葉に、セオは苦しげに目を細めた。
「……リュシア。」
彼の声は、優しくも重かった。
「薄々気づいてるかもしれないけど……僕たちは、どんどん引き離されてる。」
「……え?」
「これは、憶測だけど。
君が生きようとすればするほど……笑うようになって、元気になって、生気が満ちれば満ちるほど、僕は君の目に映らなくなっていく。
きっと、声を交わすことも、やがてできなくなるんだ。」
ゆっくりと、セオの言葉を理解していく。
声にならない嗚咽が洩れる。
「……そんな……!」
「僕たちが出会えたのは、この森の不思議な力と、当時の君が死に近いところにいたからだと、思う。」
必死に否定しようとするけれど、涙が次々に零れ落ちるばかりだった。
セオは、悲しみを隠すように少し笑い、首を振った。
「前もそうだったな。泣いてる君を、僕は抱きしめることができない。」
両手で顔を覆っても、嗚咽は静かな森に切なく響く。
セオはふわりと近づき、優しい声で、囁いた。
「幸せになってほしい。
……リュシアを、愛しているから。」
その言葉は、残酷に、私の心に突き刺さった。




