裏切りの代償、失われた未来(柊美桜 視点)
私、柊美桜が透くんと出会ったのは、大学一年の春だった。映画研究サークルの新歓で、彼は隅の方で静かに資料を読んでいた。地味で目立たない人だったけど、話してみると優しくて、誠実で、私の話を真剣に聞いてくれた。そんな透くんに、私は惹かれていった。
付き合って一年半。私たちは、とても幸せだった。週に三回は会って、映画を見たり、カフェでおしゃべりしたり。透くんは口下手だったけど、いつも私のことを大切にしてくれた。誕生日には手作りのアルバムをくれたし、体調を崩した時は毎日心配してメッセージをくれた。
私は、透くんと将来を考えていた。卒業したら、一緒に暮らせたらいいな。そんな夢を描いていた。
だけど、あの日。全てが崩れた。
十月の終わり、神楽先輩から呼び出された。サークル棟で、深刻な顔をした先輩が、私を待っていた。
「美桜ちゃん、辛いことを言わなきゃいけないんだけど」
神楽先輩は、スマートフォンを取り出した。
「これ、見てほしい」
画面には、透くんのアカウントで、知らない女性とやり取りしているメッセージが表示されていた。
「会いたい」「君といると楽しい」「また今度」
親密な内容に、私の心臓が止まりそうになった。
「これ、透くんのアカウント?」
「うん。俺も信じたくなかったんだけど」
神楽先輩は、悲しそうな表情を浮かべた。
「それに、もっと言いづらいことがあって」
「何?」
「美桜ちゃんがなくしたって言ってたネックレス、栢森のロッカーから出てきたんだ」
「え?」
頭が混乱した。私のネックレスが、なんで透くんのロッカーに?
「多分、その女にあげようとしてたんじゃないかな。で、バレるのが怖くなって隠してたとか」
「そんな、透くんがそんなことするわけない」
「俺も信じたくない。でも、証拠があるんだ。鷹見も四宮も、現場を見てる」
私は、混乱した。透くんが、浮気?私を裏切った?信じられない。でも、メッセージがある。ネックレスもある。複数の目撃者もいる。
「美桜ちゃん、辛いと思うけど、早く知れて良かったと思う」
神楽先輩が、優しく私の肩を抱いた。
「こんな奴、美桜ちゃんには相応しくないよ」
その言葉が、私の背中を押した。そうだ。透くんに、直接聞かなきゃ。
サークル棟の前で、透くんを待った。他のメンバーも集まっていた。みんな、深刻な顔をしている。そして、透くんが来た。
「美桜、どうした?」
透くんの顔を見た瞬間、涙が溢れた。
「透くん、あのネックレス、先月なくしたって言ってたやつ。なんで、なんであなたのロッカーにあったの?」
「知らない。俺は本当に知らないんだ」
透くんは、必死に否定した。だけど、私の心は揺れていた。証拠があるのに、なぜ嘘をつくの?
「神楽先輩が、あなたのロッカーを開けたとき、一緒にいた人が何人もいるって。みんな見たって言ってる」
「それは罠だ。誰かが俺を陥れようと」
罠?そんなこと、あるわけない。誰が透くんを陥れる必要があるの?
「美桜、俺を信じてくれ。俺は何もしていない」
透くんの目は、必死だった。だけど、私は混乱していた。証拠と、透くんの言葉。どちらを信じればいいの?
「でも、証拠が」
「証拠なんて、いくらでも偽造できる。お願いだ、俺の話を聞いてくれ」
だけど、私の心は決まっていた。メッセージも、ネックレスも、目撃者も。全てが、透くんの浮気を示している。一年半の関係よりも、この証拠の方が、重く感じた。
「ごめんなさい。もう、あなたを信じられない」
「美桜」
「透くん、別れましょう」
その言葉を口にした瞬間、透くんの顔が歪んだ。でも、私は走り去った。後ろから透くんの声が聞こえたけど、振り返れなかった。
それから数日、私は神楽先輩に慰められた。先輩は優しくて、私の話を聞いてくれて、傷ついた心を癒してくれた。
「美桜ちゃん、辛かったね」
「うん」
「でも、早く気づけて良かった。栢森みたいな奴と一緒にいても、幸せになれないよ」
神楽先輩の言葉が、私の心に染み込んだ。そうだ。透くんは、私を裏切った。もう、関係ない人だ。
数週間後、私と神楽先輩は、関係を持った。先輩の部屋で、優しく抱かれた。だけど、心のどこかで、罪悪感があった。透くんは、本当に浮気していたのだろうか。もし、違っていたら。
でも、その考えを振り払った。証拠があるんだから。間違いない。
だけど、神楽先輩との関係は、徐々におかしくなっていった。最初は優しかった先輩が、段々と変わっていった。私のスマートフォンを勝手に見たり、誰と話しているのか細かく聞いてきたり。束縛が、すごく重い。
「美桜ちゃん、今日誰と会ってたの?」
「友達とカフェに行ってただけだよ」
「男?女?」
「女の子だけど」
「本当?嘘ついてないよね?」
神楽先輩の目が、疑いに満ちている。私は、息苦しさを感じた。
それに、先輩は透くんのことを、何度も何度も悪く言った。
「栢森、最近ゼミでも孤立してるらしいな」
「そうなんだ」
「自業自得だよ。浮気するような奴、誰も相手にしないだろ」
その言葉を聞くたびに、私の心は痛んだ。もういいじゃないか。もう終わったことなのに。
ある日、講義の後、偶然透くんと廊下ですれ違った。透くんは、痩せていた。目の下にクマができて、表情も暗い。私と目が合った瞬間、透くんは何か言いたそうにしたけど、結局何も言わずに去っていった。
その夜、私は泣いた。透くん、ごめんなさい。でも、私は間違ってない。証拠があったんだから。
十二月に入り、神楽先輩の様子がおかしくなった。妙に焦っている様子で、私にも優しくなくなった。
「美桜ちゃん、お前、俺のこと本当に好きなの?」
「え、急に何?」
「だって、最近冷たいじゃん」
「そんなことないよ」
「嘘つくな」
先輩は、私の腕を強く掴んだ。痛い。
「先輩、痛いです」
「ごめん」
先輩は、手を離した。だけど、その目は冷たかった。
一月、透くんからメッセージが来た。
「話したいことがある。一人で来てほしい。場所は大学のカフェテリア」
私は、迷った。でも、何か大切な話があるような気がして、行くことにした。
カフェテリアで透くんを待った。透くんは、以前よりもしっかりした表情で現れた。
「久しぶり」
「うん」
沈黙が流れた。透くんは、鞄から資料を取り出した。
「美桜、これを見てほしい」
「これ、何?」
「俺が集めた証拠。神楽が、俺を陥れた証拠だ」
私の心臓が、激しく鳴った。透くんは、一つ一つ、丁寧に説明した。偽造されたメッセージのメタデータ。防犯カメラに映った神楽先輩の姿。矛盾する証言。
私は、資料を震える手で受け取った。そして、防犯カメラの映像を見た瞬間、全身から血の気が引いた。
神楽先輩が、一人で透くんのロッカーを開けて、中に何かを入れている。
「嘘」
「本当だ。神楽は、最初から俺たちを壊すつもりだった。お前を奪うために」
「そんな」
涙が、止まらなかった。私、何てことを。透くんは、無実だった。私は、透くんを信じなかった。一年半の関係よりも、偽造された証拠を信じた。
「私、何てことを。透くん、ごめんなさい。ごめんなさい」
私は、テーブルに突っ伏して泣いた。全身が震えて、呼吸ができない。
「美桜、謝罪はいらない。ただ、一つだけ言わせてくれ」
透くんの声は、冷たかった。
「お前は、俺を信じなかった。一年半の関係よりも、神楽の涙を信じた。それが、全てだ」
「透くん」
「もう、戻れない。俺たちは、終わったんだ」
透くんは、立ち上がった。
「お願い、もう一度やり直させて。私、本当に反省してる」
「無理だ」
透くんの目は、何の感情も映していなかった。
「これから、俺は神楽を告発する。大学にも、警察にも。お前も、巻き込まれることになる。覚悟しておいてくれ」
「待って」
私は、透くんの腕を掴んだ。だけど、透くんはその手を振りほどいた。
「さようなら、美桜」
透くんは、カフェテリアを出て行った。私は、その場で泣き崩れた。
それから数週間、地獄のような日々が続いた。神楽先輩が逮捕され、大学中に事件が知れ渡った。私は、神楽先輩の共犯者だと思われた。廊下を歩けば、ひそひそと囁かれる。
「あの子、神楽の彼女だったんだって」
「栢森くんのこと、裏切ったらしいよ」
「最低だよね」
サークルにも、ゼミにも、居場所がなくなった。友達も、離れていった。両親にも連絡が行き、激怒された。
「美桜、お前は何をやってるんだ」
「ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃない」
父の声が、電話越しに響いた。
私は、大学を辞めることにした。もう、ここにはいられない。毎日が辛くて、夜も眠れない。透くんの顔が、頭から離れない。あの時の、冷たい目。もう、戻れない。俺たちは、終わったんだ。
実家に戻り、部屋に引きこもった。就職も、進学も、全て諦めた。両親は、私を冷たい目で見る。友達からの連絡も、途絶えた。
ある日、SNSで透くんの近況を見た。大手企業に就職して、新しい環境で頑張っているらしい。写真には、笑顔の透くんが映っていた。
良かった。透くんは、立ち直ってくれた。私が傷つけた透くんが、新しい人生を歩んでいる。
でも、私は違う。私は、あの時の選択を、一生後悔し続ける。透くんを信じなかったこと。証拠だけを見て、透くんの言葉を聞かなかったこと。神楽先輩に騙されて、透くんを裏切ったこと。
私は、透くんに送れなかったメッセージを、何度も書いては消した。
「透くん、ごめんなさい。私が間違ってました。もう一度、チャンスをください」
でも、そのメッセージは、もう透くんには届かない。透くんは、私をブロックしている。当然だ。私は、透くんを裏切った。
夜、眠れない時、私は考える。もし、あの時に戻れるなら。私は、透くんの言葉を信じただろう。証拠を疑っただろう。神楽先輩の優しさに騙されなかっただろう。
でも、時間は戻らない。私は、あの時の選択の結果を、一生背負って生きていく。
両親は、私に地元の小さな会社で働くように言った。だけど、面接に行く気力もない。毎日、部屋で過ごして、何もしない。ただ、後悔だけが、胸を締め付ける。
私は、全てを失った。透くん。友達。未来。夢。全て、私の選択が招いた結果だ。
ある日、鏡を見た。そこには、痩せ細って、目に生気のない女が映っていた。これが、私。透くんを裏切った、私。
私は、鏡に向かって呟いた。
「透くん、ごめんなさい」
その言葉は、虚しく部屋に響いた。もう、誰にも届かない。私は、この罪を背負って、生きていく。それが、私の選択の代償だ。
窓の外では、桜が咲いている。新しい季節が、始まろうとしている。でも、私の心には、春は来ない。私の人生は、あの時から止まったままだ。
透くん。あなたは、新しい未来を歩んでいる。私は、過去に囚われたまま。これが、裏切りの代償。これが、信じなかった者の末路。
私は、カーテンを閉めた。光が、眩しすぎる。もう、私には、光を浴びる資格がない。




