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竜鱗騎士と読書する魔術師  作者: 実里晶
紅天に消えし者どもよ
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58 竜の咆哮


 苦しみは長く続いた。


 ふたりで選んだ柔らかな薄緑の壁紙の部屋に、くぐもった獣の唸り声のような声が響き渡る。

「イネス、主人がたいへんなの……」

 彼女は泣きながら、書斎の机の裏に巧妙に隠された隠し部屋で、息を殺しながら夫の古い友人に電話をかけていた。

 彼は昔の同僚のひとりで、今は市内の図書館に警備員として勤務している。退役したあとも特に夫が気にかけていたひとりで、仕事を紹介した縁でときどき食事に来ていた。

「おねがい、助けて、今すぐに。何かあったら、貴方に連絡するよう言われてたの。このままじゃ、主人が死んでしまう」

 アルノルトの苦悶の声は、段々と小さくなっていく。

 できるなら、すぐにでもここを飛び出して行きたい。

 死ぬとわかっていても、ここで耐えているよりはずっといい。愛する人の死をただ待つよりも、出て行って一緒に殺されたほうがよほどいい。

 それはただの狂気で、感情的なだけの考えだった。

 声を殺していても、涙は滂沱とあふれてくる。

 薄い壁の向こうから、引き裂くような子供の泣き声が聞こえてくる。そのことも彼女の心を引き裂いた。

「もう切るわ……」

 聞こえてくる若者の声は、通話を続けるように必死に引き止めている。

 彼女としても外界との繋がりを断つのは耐え難い恐怖だった。でもこれ以上、会話していれば気がつかれる可能性が高い。

 意を決して通話を切り、美しい鳥のブローチに偽装された通信機を砕いた。それはアルノルトが妻子を守るために託した、かつての仲間たちだけに通じる通信装置だった。

 でも、だからこそ、もしこの隠れ場所が見つかったとしても、最後の連絡先がどこなのか知られるわけにはいかない。彼らは夫の大切な仲間だからだ。


 もう少しで市警だってやって来るはず。


 それだけを励みに、彼女はじっと唇をかんだ。

 息子は泣いているが、声が出せるうちは死んではいない。だから、耐えなければ。

「《昔々》」

 悪魔の声が聞こえた。

 澄んだ美しい声音だった。

「《あるところに美しい娘がいました。娘の名はサナーリア……》」

 悪魔は歌うように物語を語る。

 その度に苦しみ抜く声は高まったが、今ではかすれた吐息が聞こえるだけだ。

「《ある日、一座の舞台が終わったころ、弟たちが息せききってやって来ました。サナーリア、たいへんだ、と弟のひとりが言いました。町の東に火の手がみえる。とうとうこのあたりにも竜がやって来たんだ》」

 薄暗い隠し部屋でうずくまっていると、その声がよく聞こえてくる。声はゆっくりと移動している。その声は高くからも、低いところからも聞こえた。

 まるで探し物をして、棚のあちこちを覗いているかのように。

「《けれども末の妹だけが、どこにもいません。サナーリアは血相をかえて、弟たちが止めるのも聞かずに飛び出して行きました。町を焼いて燃え盛る炎の中へ……》」

 語りがぴたり、とやむ。

「ねえ、どこなの?」

 彼女は闇の中で肩を抱き、震えた。

「あなたはどこにいるの?」

 どこにもいない、どこにも。彼女は息を殺して耐える。

「わかってるのよ、あなたはここにいるわ……。そして子供を助ける機会をうかがっているのよね。そうだ、いいことを思いついたわ。あなたに、愛する家族を助ける機会をあげましょう。簡単なことよ。ただそこから出てくるだけいいの」

 彼女はさも名案だというようにパチンと両手を叩く。

 その瞬間、火をつけたかのような男児の叫びが響き渡った。

 これまでの嗚咽とは違う。

 明らかに危害を加えたのだとわかる金切り声だった。

「市警は来ないわよ、たぶんね。それどころじゃないと思うから……」

 きい、きい……。音がする。

 声は窓のほうに近づいていく。

 突然、轟音が建物を揺らした。

「ひぃっ」と彼女は声を漏らしかけ、慌てて口を塞いだ。

 花瓶が落ちて粉々に砕ける音。

 爆発音に近い。

 続いて、金属をひっかいたような甲高い音が、大音響となって押し寄せる。おそらく、近隣一帯に響き渡ったはずだ。

「いい夜だわ。仕込みも上々」

 なんの感情もこもらない、冷たい声が聞こえた。

 さっきの悲鳴が聞こえたのだろうか、隠し扉のすぐ前だった。

 人殺しをしているのに、まるで何かのゲームをしているかのようだ。

「化け物……」

 彼女は呟いた。

 悪魔の声が、華やぐ。

「あら。私はバケモノじゃないわ。か弱くて愚かな人間だからこそ、何度も間違いを犯し、他者を傷つけ、どうしようもなく壊さずにはいられないの。ほんとうのバケモノというのはね……彼のことだわ」

 彼女には見えなかったが、悪魔はこのとき、窓の向こうを見ていた。

 住宅街の屋根を越えた向こうに、不気味な黒い影が出現していた。


     ~~~~~


 袖のカフスに触れる。

 石のはまった土台の、銀色のパーツ。

 これが回転するようになっていて、二度右に回すと、空中に、表示が浮かぶ。

 通信装置になっていて、連絡先が表示されるが、登録されているのは学院の事務部と、あとは天藍、ウファーリやイブキだけだ。

 左回転で表示が消える。

 これに必要な動力……すなわち魔力は、全て宝石の中に溜まっている。無くなれば、日光や大気中の微量な魔力を吸収することで補充する。太陽発電みたいなものだ。しかし、便利だ。

 使い方がわからないと相談したらウファーリが笑いながら教えてくれたのだが、携帯電話を失った標準的男子高校生の心の安定に一役かってくれていた。

 僕の携帯電話は、確かポケットに入れていたはずなのだが、こちらに来て目覚めたときには既に失われていた。

 紅華が没収したのか、でも、こんなところで使えるとも思えないし、それを奪う意味はわからない。

 そもそも、僕が見つかったという図書館地下に異世界とこちらを繋ぐ《扉》はない。

 扉から地下まで誰かに移動させられたわけだから、そこでなくしたのか……。

 もっとも、それを使って仮に連絡しできたとしても、頼りになりそうにもない連絡先がアドレス帳を埋め尽くし、日々のなんでもない写真が並んでいるだけなのだが。


「先生、これ持って!」


 警備員の制服の上から革製のジャンパーを着たイネスは、僕に向けて四角いケースを投げて来た。

 気楽に受け止めたところ、ひどく重たく、危うく取り落しそうになった。

 ごくわずかな男としての矜持が、地面から三センチのところでケースを保持させた。

「うぐぐ。これ、すごく重いんだけど……!」

 イネスは答えずにバイクに跨ると、後ろに乗るよう合図をしてきた。

 ゴーグル越しではあるものの、その表情は今まで見たこともないほど真剣だ。

 僕は彼の後ろにケースを抱いたまま乗り込んだ。

 バイクに二人乗りするなんて、初めてだ。怖いし、危険だし、自分ひとりじゃ絶対に運転なんてしないだろう。車だって嫌だ。

「アルノルト大尉は、俺がまだ軍にいたとき、同じ部隊の隊長だった人です」

 あのあと図書館できいた彼の人となりは、鬼軍曹、みたいな軍人イメージからはかけ離れていた。穏やかで優しい人物、だけど締めるときは締める、みたいなバランスの取れた性格で、それが災いして黄市の辺境に配属された。正直者が馬鹿をみる世の中、ということだ。

 だが鶴喰砦の戦いを生き残った彼はさすがにその功績を認められたらしく、出世を遂げた。

『キミってボクの忠告をマジメに聞かないよねえ』

 オルドルの溜息が聞こえる。

 でも、エンジン音に紛れて少ししか聞こえない。


「飛ばしますよ、先生!」


 僕は彼の背中にしがみつき、頼むから、次のコーナーを果敢に攻めるのはやめてくれ、と叫びたくなるのを我慢した。

 何とかバランスを取って、カフスに触れる。

 空中に画面が開いて、連絡先を選択。表示の文字は全くわからないものの、勘と、一切余計なことはせず、教えられた通りの操作を繰り返すことで何とか処理する。

 天藍にメッセージを送る。ついでに現在地情報を取得できるようにしておいた。

 道具の使い方もわからない猿同然の段階から、結構進歩したものだ。自分で自分を褒めたいくらいだ。

 イネスは裏道を使いながら、凄まじい速度で海市を東に抜けていく。

 周囲は閑静な住宅街に差し掛かる。通りの両側には住宅が並んでいる。ただ、安っぽい感じはしない。ここに住むのには安定した収入が必要そうだ、というのが、きれいに掃除された路地や、窓辺に飾られた美しい花でわかる。

 自分の心が逸るのを感じる。

 この先に、いるかもしれない。

 僕の心臓を貫いたやつが……あと少しで会える。

 バイクは路地裏に差し掛かる。

 そのとき。

『やな感じぃ~』

 オルドルが言ったのと同時に、バイクが路面をすべりながら急停止した。

「なっ何? 到着したの!?」

「いや、この音……」とイネスは言ったきり、表情を強張らせて黙った。

「音?」

 確かに、妙な音が聞こえた。

 きいい、と金属を引っかくような音。金切り声に近い。

 路地裏に冷たい風が吹き抜ける。


 ずん。


 重たい音響とともに、地面が激しく揺れ、石畳に亀裂が走った。

 亀裂は広がり、その中心が砕け散る。

 砕け散った地面から、銀色に光る鉤爪が地面を掴むのが見えた。

 鉤爪は文字通り大地を引き裂きながら、鱗に包まれた巨体が現れる。

「何故海市に? どうやって結界を越えた……!?」

 イネスの疑問は、ほとんど叫びだった。

 まずは丸太のような腕が、爬虫類そっくりの頭部が、牙が、そして体、長い尾、後ろ脚……まるで地面に空いた大穴から生えてきたかのような、異形が現れる。

 それは《竜》だった。

 どこからどうみても、竜。

 まちがいようがない。

 銀の虹彩、鏡のような銀の鱗を生やした体躯。

 ファンタジー世界の大物を前にした感動とかは、無い。

 あるのは、高さ2メートルの獣を前にした恐怖。肌がひりつき、本能がヤバイ、ここから逃げろと叫んでいる。

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」

 恐怖が高まりすぎて、僕はかえって冷静な気持ちでイネスに訊ねた。

「翡翠女王国では、ああいうのを飼ったりするのがブームで、実は躾の行き届いたペットでした、というオチはないよね」

 イネスはごくりと唾を飲み込んで、答えた。

「それについては長年論争がありますが、禁止されてはいません。……お手のかわりに飼い主を叩き潰し、くしゃみで町内を更地にかえる、恐ろしいペットを飼おうというモノ好きがいればですけど」

「じゃ、なんでこんなところに?」

「わかりません!」

 竜は雄叫びを上げた。


 ぎいいいい、

 いいいいい。


 不快な大音響が僕の鼓膜と夜空をつんざく。


『そりゃもちろん、キミをカクジツに殺すために決まってるじゃないか、ツバキ。魔法使いは竜が大の苦手なんだからさ……』


 オルドルが何か言ってる。

 でも残念ながら、全然、聞こえない。

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