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竜鱗騎士と読書する魔術師  作者: 実里晶
紅天に消えし者どもよ
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54 不穏な謎

 濃い華の香りがした。

 初めて会ったときと同じ、薔薇の香りだ。

 その匂いを嗅ぐと、ずきん、と心臓が痛んだ。

 裸足の紅水紅華は、リブラの屋敷に来たときと同じく、誰も連れていなかった。

 兵も、取り巻きもいない。


「黒曜大宰相、抜け駆けは禁止だという約束だったでしょう」


 紅華は黒曜を睨みつけた。


「彼が私のところに来たのですよ、王姫殿下。それとも、彼が捕まるところが見たかったとでも?」


 黒曜は平然とした顔をしてる。

「抜け駆け? なんのことだ?」

 紅華は微妙な表情を浮かべた。

「わたくしとこの男は、貴方の件に関する一切のことについて手を組んでいる」

 紅華は怒った顔をしていたが、あきらめたのか溜息を吐いて、黒曜が座っていたソファに腰を下ろした。

「でも、味方というわけではない」

 スカートがふわりとふくらんで、また、素足を覆い隠す。

「それは否定しないが、拷問をしろ、と言ったわけではない」と黒曜は肩を竦めた。

 紅華は僕を、あの赤い瞳で見据えた。

 ずきん、と心臓が軋む。

 これで、振り出しに戻った。

 ここには天藍はいない。

 僕は、彼女の掌の上でいいようにされるだけの、何も持たない、十五歳の異世界人だ。


「不思議」と紅華はほんとうに不思議そうに言った。「二度も逃げ出したのに、二度とも戻って来た。なぜ?」


「……状況がかわったんだ。君に教えてもらいたいことが、たくさんある」


 ふむ、と紅華は大宰相を見た。

 大宰相は背後に影のように控えている。


「まあいい。貴方を巻き込んだのはそもそも、わたくしだから」


 紅華は「でも」と付け足した。


「もしそれがイブキの指名手配を取り下げたいとかいう話なのだったら、何ひとつ力になれないと先に言っておく。何故なら、彼女が一連の事件の犯人であるという情報を市警に提供したのは、他ならない……」


 彼女は、白い掌を持ち上げて、自分の左胸の上に置いた。


「なっ……」


 紅華が、イブキの情報を市警に売った……?

 言われたことが、すぐには理解できなかった。


   ~~~~~


 紅華は、事件に使われた《凶器》とでもいうべき竜鱗を密かにクヨウ捜査官に譲り渡した。

 竜鱗の力は王室を……引いては、今なおこの国の中枢にある貴族たちを守護する重要なものだ。

 女王府にあっては、その捜査は絶対に行われない。

 竜鱗の持ち主が特定されれば、その竜鱗魔術師は殺人の罪を負い、責めをうける。そうなれば女王国の持つ最大の武力である騎士がひとり減り、王室の信用を失いかけない。それを嫌う貴族たちは、何がなんでも竜鱗を調べさせまいと妨害するだろう。

 本格的な分析をして、犯人を突き止めるためには、僕から摘出した竜鱗を市警に渡すしかなかった。

 リブラや海府議員の事件で使われたものは、既に女王府が保管していて、二度と世間に出ることはないが、この国の人間どころか、この世界の人間ですらない僕から摘出したものであれば、誰もその存在を知らないはずだ。

 こっそり持ち出して、捜査官に渡すのは大した手間ではない。

「リブラがいさえすれば……」

 彼女は、そう言いかけて口を噤んだ。

 リブラがいれば、そんなまだるっこしい手を使う必要はなかった、と彼女は言いかけたのだ。医師としての伝手を頼って秘密裏に竜鱗の分析をすることもできた。でも、それはもうできない。だから紅華は、最後の手としてクヨウ捜査官に証拠を委ねたのだ。

「でも、イブキは犯人じゃない。それはたしかだ。彼女が犯人なら、僕を殺せるはずがない」

「君が異世界の人間だから、と言いたいのだろうな」

 殺されかけたとき、僕は異世界に……日本にいた。

「犯人は少なくとも異世界とこちらを行き来できなくちゃいけない。だから、その方法を聞きに来たんだ」

 すでに黒曜から《異世界の物を持ち帰る》手段があると知っている。

 紅華はすぐには答えず、長い睫を瞬かせた。

 彼女の赤い瞳は、冷たく、感情というものがまるで存在していなかった。

「以前、この国の由来について少しだけ話しました。女王国は、もともと異界から訪れた、迫害された魔女や魔法使いたちが創りあげた国だと……」

 有名なのはヨーロッパ、中世から近代にかけての《魔女裁判》だろうか。魔女や魔法使いだとされた男女が不当な裁判にかけられ、殺された。魔術に関する恐怖は現代でも、様々な地域に根強く残っている。そういう知識は、聞きかじりではあるけれど僕も知っている。

 紅華が言うには、彼らの大半は事実無根の罪で捕えられ、ひどい拷問によって《魔女》に仕立てあげられた哀れな犠牲者にすぎない。だが、中には本当に魔法使い、と呼ぶにふさわしい能力を持つ者もいた……。

 信じ難い話だけど、女王国にとってはそうではないらしい。

 凄惨な拷問や処刑から逃げた彼らはやがて異界へと渡り、迫害された者たちの楽園をつくりだした。

 それが翡翠女王国。

 この国は、それからも魔法の才能を持ち、故郷では受け入れられなかった者たちを迎え入れて、魔術の力を磨き続けて来た。

「天海市内には、彼らを受け入れるための、異世界と繋がる《(ゲート)》が五つある」

 そのありかは翡翠宮、裁判所地下、海府議会前広場、残り二つは伝承だけで、確かな場所は知れない。

 扉は普段、かたく閉ざされている。

 だがその門をくぐるにふさわしいものが異界に来ることを望めば、それは自ずから開かれる。

 ただ、実際に門が開かれ、最後に魔法使いが迎え入れられたのは大昔のことで、市民にその伝承を信じている者は少ない。神話に近い何かだと思っているのだろう。

「そのほかにも、時空の裂け目とでもいうのだろうか。ひょんなことで君の世界とつながることがある。たとえば図書館の書棚に見たこともない書籍が現れたり」

 紅華は黒曜の収集物にちらりと目をやった。

「研究者の自宅に見たことのない道具が現れて、それを分析するうちに、科学の発展をもたらしたり……」

 そういうモノを《天恵てんえ》と呼ぶ。ごく当たり前の現象で、市民はとくに不思議に思ったりもしないらしい。

 しかし、人は必ず《門》を通らなければ、女王国に来ることはできない。

「それを決めているのは《天律》だ。魔法が、あちらからこの国を訪れる規律を定めている」

 紅華はどこからともなく紅い鈴を取り出し、軽く振ってみせた。

 涼やかな音があたりに広がっていく。

「そして、もし女王国から異国に行くのならば、この規律を書き換える必要がある。つまり、天律魔法の使い手が必要なのだ。逆に言えば、天律魔法さえあれば……自由自在に《門》を使って行き来できる」

 嫌な予感がする。

「条件が揃いさえすれば、真珠イブキでも可能だ」

 だから、彼女の犯行を否定する材料にはならない、と彼女ははっきりした声音で結んだ。

 居座った予感はいつまでも去ってくれない。

 異世界に行くには、天律魔法が必要……。

「天律魔法は女王のみの魔法だが、その子息であればかならず《鈴》を所持して生まれる。わたくしもそう、百合白も、灰簾柘榴も。お前を殺そうとした者の裏には、女王の直系の血を引く誰かがいる」

「でも、そんなに身分の高い人がどうして……」

 どうして、その誰かは……わざわざ異世界に来てまで、僕を殺そうとしたんだろう。

 視線が、自然と手の中の杖に導かれる。

 エレベーターに乗り込んできたあの、フードをかぶった人影は、迷いなく僕が持っていた本を奪おうとしてきた。

「まさか……青海文書のせいで」

 本は奪われ、残ったのはオルドルのページだけだった。

 まさか、あの安い中古本が、そんなに重要なものだとは……。

 それにしても、人を殺してでも奪おう、なんて考えることじたいが、異常だ。

「それだけの価値があるのだ」

 こちらの考えを読んだのか、黒曜は静かに言った。


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