覚醒
「お嬢様、お待たせしました」
呼ばれ、座ったまま振り向く。
離れたところから声をかけてくれたのは、ジェイの気遣いだろう。
彼が繋いでいた手を引き上げるように立ち上がらせてくれ、二人ともすぐに脇に置いていた剣を腰に差した。
「おや、夫婦喧嘩は終わりましたか?」
「終わったわ」
「こちらも、ギャラリーを撒いてきましたよ。皆さんとても興味津々でしたので簡単に説明しておきました」
なにをどう簡単に説明したのだろう。
私が訝しげな顔をしたからか、ジェイはなにも言わずににっこりと笑った。
そうして、彼の方を見る。
「そろそろここを出なければ日が暮れてしまうが、どうする」
「……俺はあなたにも疑われてるんですね?」
「いいや、疑ってはないよ」
くすくすと笑うジェイは、彼の「心外だ」と言うような表情を見て、安堵したように眉を下げた。
「これも仕事なんだ。悪いな」
「俺の見張りですか」
「そうだ」
「まあ仕方のないことですね」
険悪な雰囲気はなく、お互いを労るようなそれに、私は彼がドージアズでうまくやっていけていることに触れられたような気がした。
時折、男同士の間にしかない「絶対的な信頼感のある適当さ」の空気を感じると、羨ましくてたまらなくなる。彼らは会って数分でそんなことをやってのけるからだ。女同士ではそうはいかないし、だからこそ日を重ねれば重ねるほど、私たちの入り込めない「分厚い何か」が蓄積されていって、さらに遠く感じる。
「で、お前はどうするんだ?」
「ドージアズに帰りますよ」
「ふうん。帰る、ね」
「心配無用、と誰か適当にお伝え下さい」
なにを思ったのか、彼は私の手を取ると、ジェイにしっかりと繋いでいるところを見せた。
「……なるほど、わかった。多方面に、キリとお嬢様は何にも問題ないどころか、相当仲がよろしいと吹聴しておく」
「助かります」
「それは、助かるのかしら……」
思わず呟くと、両側から「当たり前でしょう」やら「知られておいて損はない」と、なにを言っているんだと言わんばかりの言葉が降ってきた。
ジェイが私の頭をぽんっと軽く撫でる。
「それが、あなたを守ることになるんですからね」
ありがとう、と伝える前に、その手はさっと離れた。
彼が手首を掴んで退かせようとしたのを、一瞬早く反応したジェイがかわしたのだ。
頭上で手をパタパタされて迷惑ではあるが黙っておく。
「俺より先に言わないで下さい。妻を安心させるのは俺の役目ですので。あと、軽率に触れないで下さい。彼女は俺の妻です」
「……お嬢様、これに何か飲ませました? 素直になる薬とか、鈍感が治る薬とか、惚れ薬とか」
ジェイが彼を指さした。
私は首を横に振って「覚醒したのよ」とだけ言う。ジェイは笑い、彼は不服そうではあったが反論はしなかった。それがまた嬉しい。
ゆるもうとする表情を何とか保ちながら丘を下っていると、ふと視線を感じた。
坂を下って遊んでいた子供らが、途中で足を止め、こちらを見ていたのだ。私を見て口ごもるが、彼が気づいて手を振ると、大きく手を振り返して言った。
「きりー! けっこんおめでとうー!」
「おめでとー!」
きゃっきゃと楽しそうに言うと、そのまま二人はまた坂を下って遊び始めた。
その声がどこまで届いたのかはわからなかったが、そこから先へ歩いて人に会う度「結婚おめでとう」と話しかけられるようになり、彼は「おう」と軽く返し、私は彼からのアドバイスに従って「ありがとう」とだけ軽く返事をした。
洗濯を取り込む女性も、収穫した野菜を洗っている男性も、練習を終えて岩に腰掛けていた青年たちも、一様に私が「ありがとう」と言うと少し驚いたように目を丸くした後、にこっと笑い返してくれた。
なぜか私は受け入れられたらしい。それほど、彼の人望が厚いのかもしれないけれど。
「どうかしたか?」
私の様子に気づいた彼が不思議そうに聞いてきた。
非常に言いにくい私に代わって、ジェイが答える。
「戸惑っているんだよ。彼らがキリとユイ殿の婚約を望んでいたことを知っているからな」
「……それは」
「もちろん教えた」
「グレース、あのな」
「誤解はしていませんよ。大丈夫です。でもちょっと不思議で」
それはですね、とジェイが周りを見渡しながら言う。
「皆、さっきの派手な夫婦喧嘩を見ていたんです。あの強い女性がキリの妻なのかと、そりゃもう話題になっていたので、ドージアズで一番強い女性ですよ、と説明しておきました。ついでに、あなたがどれだけ努力家でいじらしくて真面目で、可愛らしい人かも伝えてきました」
「余計なことまで伝えなくてもいいのよ」
なぜか自慢げなジェイに呆れながら言うと「あなた達が和解するまで人払いをしていたのですが?」と追撃を食らったので、おとなしく感謝を伝える。
「ありがとう。色々騒がせて世話をかけたわ」
「いえいえ。あなたが幸せであれば嬉しい限りですよ。話すのも久しぶりでしたしね」
ソラシオスへの出立のため、彼を迎えにきたあれが、久しぶりの再会だった。
私が十四の年の頃まではいつも屋敷にいたというのにいつの間にか疎遠になっていたのは、当時の私にはわからなかった大人達の狡猾な駆け引きの中で必要なものだったらしいことは、後にユーリに聞いた。私も思春期を迎え、会話らしい会話はせず、いつの間にか「顔見知り」程度になっていたことは、こうして話す中で悔やまれる。
「そうね。こんなに話すのも久しぶり。今までもったいないことをしていたわ。今後はキリ様の友人としても、いつでも話しに来てほしいわ」
「だそうだ。どうかな?」
「ええ、妻の頼みならいくらでもどんなものでも叶えますよ。ぜひ来たらどうですか」
「キリ……お前、本当に」
震えるように笑うジェイの笑い声を聞きながら、私たちは帰路につくために足を進める。
来たときよりもずっと足は軽く、ここに来てよかったと、心から思うのだった。




