幸運
自覚した。
そう言った彼の目は、柔らかな日差しを受けて落ち着き払っていて、私だけが手をつないでいることを強く意識しているようだった。
なにを自覚したのか、なんて聞くに聞けない。
無言の空気の中でまたじっくりと考え込んでいたような彼は、一人うんうんと頷いた。
伏せたまつげが美しく瞬き、私を見る。
「君が誰よりも大切だ」
「……」
「グレース?」
「……」
「……」
「……」
「君が、誰よりも」
「わ、わかりました、わかりましたから待って下さい」
「どうして待つ必要が?」
「あの、心の整理をさせて下さい……」
顔が熱い。
耳に熱が集まってきた。きっと顔は真っ赤になっているのだろう。
彼が私の顔を見て目元を和らげる。
「すぐに信じてもらえないことは理解している。君の好意に甘えて誠実ではなかったし、君に言葉をたくさん贈られてきたにも関わらず愚鈍だった。思えば、誰かを甘やかしたいと思ったことはなかったし、興味を持つこともなかった。嫉妬や独占欲だっけ? そんなものも抱いたことはない。そもそも好意なんぞ鬱陶しかったはずなのに、君のそれだけは心地良かったんだから、さっさと自覚すれば良かった。そうすればもっとずっと優しくできたのにな」
「あの、もう結構です……」
「? なぜだ」
「これ以上優しくされては困ります」
手を離してくれないので、彼の手ごと顔を覆う。
ごつりとした感触のあたたかい手のひらが一つ離れて、私の頭を撫でた。左手は握られているままだ。捕獲されているような気分になり、頭を撫でられながらそろりと見上げて伝える。
「キリ様、別に私は逃げませんが」
「好きで握っているだけだ。気にするな」
「……そうですか」
「君の手に触れていると安らぐ」
なんだろう。供給過多になっている気がするのは、気のせいかしら。
あまりにも遠慮も恥じらいもないストレートな言動に、私の方がいっぱいいっぱいになりそうになっていた。恐ろしいのは、それが私を揺さぶりたいがためのわざとらしいものではなく、彼の本心であることだ。
私はふいに、思い出す。
彼が「人を愛する」と自覚した時にはどうなってしまうのだろう、と考えたことを。そして、こうも思った。きっと、どこまでも愛情を注ぐに違いない、と。
気持ちを返してくれることを望んでいたのは私だ。
私と同じように想ってもらえたら、と。
彼が自覚なく私を大切にしてくれていたことも、逃げてまで答えてくれようとしてくれたことも、嫉妬や独占欲を持ってくれていたこともわかっていた上で、押して、揺らして、動揺させて、そうやってずっと彼を甘やかしていくつもりだったのに。
「グレース」
ほんの少し甘い声が、私の逃げていた視線を呆気なく捕まえる。
「どうして睨む?」
「……いえ、気のせいでは?」
「いいや。多分俺たちはよく話すべきだと思う。君は早とちりだし、俺は鈍感だ。言葉にした方がいいと思うのだが」
正論すぎてなにも言えない。私だって、そう思っている。
けど、あなたが好きすぎて、あなたの気持ちが嬉しくて、真正面から受け止められないのです、なんて赤裸々に言えるほど私は自分を捨てきれなかった。
「強いて言うなれば」
「ああ」
「形勢が逆転してしまって、立て直す時間が欲しいのです」
「なんだそれは」
「わからなくて結構です」
不思議そうにくすくすと笑う彼は、わかっているような気がしないでもないが、私の意思を尊重してくれるようだ。手を名残惜しそうに離した。そんな離され方をされては、私が悪いような気がしてきてしまう。
片手だけをおずおずと渡すと、すかさず握り返された。
ちらりと横を見る。
彼の横顔が綻んでいるのを見てしまったら、やはり私はこうなった彼との勝負は分が悪いことを認めざるを得なかった。
そうして、私たちはジェイが呼びに来るまで他愛のない話をした。
並んで座って、手を繋いで、湖を見下ろしながら、彼は片膝に頬杖をついて、私は膝を抱えて、時折視線を合わせる。その距離にお互い慣れようとしていたのかもしれないし、ただ離れ難かっただけかもしれない。
祖父の話を彼はぽつぽつとしてくれた。
昔からここに一人でふらりと現れて、彼に剣を教え、振る舞いを教え、他国の情勢を教え、何よりも精神的なケアをされていたような気がする、と。そしてよく私の話をして、孫自慢をしていたらしい。
「親に捨てられた俺に、肉親の話を愛おしそうにするんだな、と嫌味を言ったこともあった。そうすると、シダは、自分を愛してくれる者をただ求めるんじゃく、たくさんの人の中から自分が愛せる者を見つけただけだ、と当然のように言ったよ。シダも恵まれた環境で生きてきたわけではないのは知っていたが、あのときほど自分を幼稚だと思ったことはない」
祖父は彼に人を想う自由を教えたのだろう。
私には、いつか担う鎖から逃れられるよう、力を。
私が将来そうなることを祖父は言葉にしなかったし、かと言って「自分の思うように生きていい」とも言わなかった。ただ、彼を見つけられるようにしてくれていたような気がする。
お互いが、必然の中で出会って見つけられるように、印を付けてくれていた。
そう思うのが、私だけでなければいい。
「では、私は幸運にもあなたを見つけられたのね。あなたは?」
聞くと、彼は私をちらりと見て悪戯に目を細めた。
「お。調子が戻ってきたな」
「ええ、まあ」
「俺も幸運にも、君を見つけられた」
「なら、私たち二人はとても幸運なのね」
「そうなるな」
ふざけて笑いあう。
お互いが、お互いにとっての「自分が愛せる者」であれたことは、きっとこれ以上ない幸運なのだろう。その幸運を失くさないよう、私は心の中で優しく抱き締めた。




